福山城デジタルアーカイブ

歴代藩主 水野勝成から16代藩主 阿部正桓までの歴代藩主の紹介や古地図・古写真などの資料から見える
福山城の姿を「福山城デジタルアーカイブ」として紹介します。

福山藩 水野家 初代藩主 水野勝成(みずのかつなり)

藩主在任期間
1619年(元和5年)~1639年(寛永16年)
生没年
1564年(永禄7年)~1651年(慶安4年)

 1564年(永禄7年)、三河国に生まれる。勝成の父忠重と徳川家康母の於大は姉弟であるため徳川家康とは従兄弟の関係にあたる。
 1579年(天正7年)遠州・高天神城攻めで、初陣を飾るも1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いの時、父の勘気を受け諸国を遊歴することとなる。その後豊臣秀吉・佐々成政・小西行長・加藤清正・黒田長政などに仕え、更に備後・備中を流浪して、備中の三村家親のもとに寓(ぐう)し、於登久との間に嫡男長吉(後の2代藩主)を授かる。
 1599年(慶長4年)、豊臣秀吉が亡くなると勝成は伏見に帰り家康仲介の下、父忠重と和解して帰参した。しかし1600年(慶長5年)父忠重が暗殺されるといった訃報に接し、37歳でその遺領刈谷3万石を継ぎ、関ケ原の戦いでは大垣城を攻略する功を挙げることとなる。1610年(慶長15年)従五位下日向守(じゅごいのげひゅうがのかみ)。そこから更に1615年(元和元年)大坂夏の陣では後藤又兵衛基次と戦って破る等猛将として活躍、その功績により大和国郡山に6万石で移封される。福島正則改易後1619年(元和5年)に4万石加増されて備後10万石に移され、ここから福山藩の歴史は始まる。
 福山入封後は福山城築城と共に海を埋め立てて城下町の建設に邁進することとなる。1622年(元和8年)に福山城は完成するが、勝成の偉業はそこに留まらず、引き続き干拓・開墾・治水事業、更にはその資金を補うために全国に先んじて藩札を発行した他、寺社仏閣の修理・再建にまで及んでいる。
 1638年(寛永15年)には74歳の老身をもって島原の乱に出陣、そして鎮圧後の1639年(寛永16年)には嫡男勝俊に藩主の座を譲るも、自身の隠居料をもって城下の開墾を進めている。1651年(慶安4年)88歳で福山において死去、寺町賢忠寺にて葬られる。
 勝成の人生は戦国武将としての前半と、藩主としての後半に分かれており、特に福山に入封後は福山の礎を築くなど、その後与えた影響は計り知れない。正に福山開祖と呼ぶことができる。

絹本著色水野勝成画像(けんぽんちゃくしょくみずのかつなりがぞう)

(広島県重要文化財・賢忠寺蔵)

両手で笏(しゃく)を執り腰に太刀(たち)を佩(は)いた衣冠姿で描かれた勝成像。水野家菩提寺である賢忠寺の什宝(じゅうほう)で広島県重要文化財。
作品上部の画賛は京都瑞源院(現在は廃寺)住持、安室宗閑(あんしつそうかん)(1590~1647)によるもの。宗閑は忠重の肖像画に画賛を入れた江月宗玩(こうげつそうがん)の法嗣であり、本作品は1645年(正保2年)勝成存命中に描かれたものである。

革包茶絲威二枚胴具足(かわづつみちゃいとおどしにまいどうぐそく)

(広島県重要文化財・賢忠寺蔵)

刈谷藩時代、関ケ原の戦いの時、大垣城攻めに水野勝成が使用したもので、わき腹に鉄砲傷がある。
兜は表面を熊毛植とする唐冠形(とうかんなり)変わり兜で、前立(まえたて)には相手を威圧する獅噛(しかみ)を挿す。胴は横板を鋲で留める横矧胴(よこはぎどう)を革包とし、朱塗で整える。胴上部の前立挙(まえたちあげ)には水野家家紋である“抱き沢瀉(おもだか)紋”が施され、国宝「日向正宗」(三井美術館蔵)と共に水野勝成が残した数少ない「武将の証」である。
また本作品は福山水野氏改易後も水野家家宝として保管していたもので1963年(昭和38年)水野家から賢忠寺に寄贈された。

金箔押鯰尾形変わり兜(きんぱくおしなまずおなりかわりかぶと)

(福山城博物館蔵)

鉄製の内鉢に、上端が少し後方に反った木製の長大な外鉢を張り懸け、その上から打出眉を設けて成形した後、更に総体に金箔を押す。朱塗地に黒で菱形を描いた木製の円形前立は、水野家の裏紋である〝永楽銭紋〟を表わす。また江戸時代中期に記された『西備名句(せいびめいく)』によると首の周りを保護する (しころ)の最下段には黒い烏骨鶏の毛が植えられていたとある。
水野家家臣磯村中太夫が水野勝成から拝領したことが『磯村家譜』にみられ、本作品の価値を一層高めている。

水野勝成ゆかりの馬具

(庄原市重要文化財・光明寺蔵)

水野勝成愛用と伝わる馬具。庄原市、水野家領土最北端である光明寺に奉納されたもので、鞍とつま先を納める鐙、更に馬の脇腹を守る障泥(あおり)、鐙を左右に吊るす力革等乗馬の道具が一式揃う。鞍は全体を鮫革に黒漆を塗って整える、梅花皮(かいらぎ)で覆って制作されており、更に中央には水野家家紋である“抱き沢瀉(おもだか)紋”が朱で施される。
また奉納先である光明寺は1349年(貞和5年)創建の後、水野勝成により菩提寺である曹洞宗賢忠寺の末寺と定められ、3代勝貞の代には諸堂が整備されるなど水野家にゆかりの深い寺である。

日の丸軍扇

(賢忠寺蔵)

軍扇とは武家が軍陣に臨む際等に携帯する扇のことで、中世末期頃からは陣中の儀礼的行為の外、下賜・献上品としても利用されるようになる。
本作品は水野家菩提寺である賢忠寺に奉納された軍扇で、親骨・中骨を木彫とし金紙に日の丸を描く。水野勝成所用の軍扇はこの他水野家分家にも勝成から下賜された由来と共に存在が確認されており、そちらも本作品と同じく金地に朱で日の丸を描く。

権現様(徳川家光)御判物(ごはんもつ)水野日向守(勝成)宛 寛永11年(1634)

(個人蔵 茨城県立歴史館保管)

3代将軍徳川家光により発行された福山藩水野家領地の判物。
備後國沼隈郡 壱万九千四百九拾石三斗余、芦田郡 壱万四千三百八拾五石壱斗餘、深津郡 七千六百九拾四石四斗余、安那郡 壱万七千百五拾八石弐斗余…と福山藩の領地についてその地名と石高とが記してある。
また本書状に記される備中國小田郡之内 七千四百五拾八石四斗余…等はその一部が後に天領として査収されているため、勝成入封当初の福山藩領を窺い知ることのできる作品と言える。

嶋原一揆之節条目写(しまばらいっきのせつじょうもくのうつし)【陣立】小笠原右近大夫・水野日向守(勝成)宛寛永15年(1638)正月15日

(個人蔵 茨城県立歴史館保管)

1637年(寛永14年)、肥前国島原では幕府の弾圧と藩主松倉重政による過度な年貢の徴収に抗してキリシタンを中心とした一揆が勃発した。一揆勢に対し幕府は九州の諸大名に出兵を命じたが一揆勢の抵抗は強く、鎮圧には至らなかった。
そこで幕府は老中松平信綱を派遣し、更なる大軍勢で押し寄せるのだが、この時勝成も幕府より出陣要請を受け74歳という老身をもって嫡男勝俊、孫である勝貞とともに500人の兵を引き連れ島原に出陣している。
それに先立って寛永14年12月24日(1638年)、鞆津において第2征討使である松平伊豆守信綱らと会談した勝成に本書状が到来、出陣は翌年2月8日と決定した。書状の内容としては攻め手に参加する九州勢の名を列挙し、松平伊豆守と現地にてよくよく相談する旨記してある。

水野記

(福山城博物館蔵)

福山藩主水野家の軌跡を記した書物は代表的なものに、幕府に提出した『水野勝成覚書』や『福山開基之由来』等いくらか散見することができ、その内容や筆者も様々である。それらには刈谷から福山に至る水野家の戦績を含めた事蹟や、領内各町の家数など多岐に渡って記されており、水野時代の福山を知る貴重な作品と言える。
特に本作品には1619年(元和5年)勝成が鞆の浦に上陸後神辺城に入城、そして築城の場を定めるべく領内を巡見する旨記される。水野家家臣、平井与五右衛門良隆の作と伝わる。

福山城古絵図

(福山市重要文化財・福山城博物館蔵)

水野家家臣小場家文書中にある福山城内を絵図面に仕上げたもの。図面中央に「御本丸」として、北隅に高くそびえる五層の天守を隅櫓と渡櫓で取り巻く様子が描かれており、その本丸に向けて北門である棗(なつめ)木門と西門であるジャコノ門、それに正門である筋鉄御門の三つの口が設けられている。また東側の内堀と外堀との間には御居屋敷として大きな一角を占め、その他には水野時代の重臣たちが広い屋敷をかまえて並んでいる様子が窺える。入り川と外堀とはすでに「築切(つききり)」によって仕切られて中央には水門を設ける。
元和一国一城令発布後に幕府が許可した新城の大きな西国へむけての役割を担って大規模に築城されていることが窺える。

福山三十町町割水道図

(福山城博物館蔵)

福山城下町は築造に際して芦田川デルタを利用したので、井戸水に海水が差し込む事案が発生していた。この解決のため上水道の敷設が早くから実施されており、これは江戸神田川上水から数えて日本でも5番目に古いものである。
芦田川の水を分流させ、城背の蓮池(ドンドン池)に導いて貯水池とし、城下町東方面と西本面へと流す取入口を設けて、さらに木管や竹管によって各町・各戸へ取り入れた。本作品は、外堀の北門上から取水して、城の東側の町人町へ流される水路、敷設が藩府か町方かを区別した線、さらに町内に設けられた惣門番所、川口番所、町々火番所などを描き込んでいる。町人屋敷を流れる水路は元より、その区画や町人の生活に欠かせない施設を示す作品である。

福山藩 水野家 2代藩主 水野勝俊(かつとし)

藩主在任期間
1639年(寛永16年)~1655年(明暦元年)
生没年
1598年(慶長3年)~1655年(明暦元年)

 1598年(慶長3年)父勝成が備中成羽城主三村氏に寄食中、勝成妻である於登久との間に生まれる。1600年(慶長5年)、父勝成が三州刈谷3万石城主となるに及んで父の下で成長、1608年(慶長13年)2代将軍徳川秀忠に仕え、翌年従五位下美作守(じゅごいのげみまさかのかみ)。大坂の陣、特に夏の陣で活躍する。1619年(元和5年)父勝成の福山入封により鞆の古城に入っており、そのため「鞆殿」とも呼ばれる。その後1638年(寛永15年)島原の乱に父勝成、嫡男伊織(3代勝貞)と共に出陣、一番乗りの軍功を挙げる。1639年(寛永16年)家督相続。
 1655年(明暦元年)江戸藩邸にて死去、58歳、福山妙政寺に葬る。室は九鬼長門守守隆女(くきながとのかみもりたかむすめ)。
 勝俊の藩政としては父勝成を受け継ぐ形で干拓・開墾等専ら領内の経営が挙げられる。農業用の溜池である春日池、後に木綿橋とも呼ばれるようになった新橋の建築は勝俊の偉業である。

水野勝俊所用 紺糸威二枚胴具足 一の谷兜付(みずのかつとししょよう こんいとおどしにまいどうぐそく いちのたにかぶとつき)

(個人蔵 茨城県立歴史館保管)

勝俊所用の二枚胴具足。勝成のものが唐冠形であったのに対し、本作品はまるで崖のような外張が施される一の谷兜と呼ばれる変わり兜である。また前立は勝成同様獅噛を挿す。胴やその下部に吊るされる草摺(くさずり)、面頬(めんぽお)下の垂等は本小札と少し幅広い伊予札で構成されており全体を黒漆で整える。兜横に備えられた吹返しや胴上部、前立挙には水野家家紋である“抱き沢瀉(おもだか)紋”が描かれる。

鞆町絵図

(伝元禄絵図・鞆の浦歴史民俗資料館蔵※原本は沼名前神社蔵)

水野氏が1619年(元和5年)に入封して後、福山城完成までは神辺城と並んで鞆城は重要な拠点であった。勝俊は勝成から藩主の座を継ぐまでは鞆の中央部小高い丘陵部の古城址にある屋鋪(やしき)に居住していた。城下町としての様相をのこしていた鞆の町も港町としての活況が加わるにつれて、鞆奉行、荻野重富によって公式の海駅鞆の役割、町支配だけでなく幕府使臣や諸大名あるいは朝鮮通信使などの往来に備えていった。
鞆町東西3町余と南北7町余の町域を神社と寺と町方に色分けした彩色の絵図で、屋鋪と在番屋鋪の西側に神社と寺院が軒を並べ、小高い屋鋪を取り巻くように町人町が配置されている様子が窺える貴重な作品である。町の北部から大可島を廻って湾内に入るあたりは護岸工事も見事に行われている。

大坂御陣御人数付覚(おおさかおんじんおんにんずうつけおぼえ)

(福山市重要文化財・福山城博物館蔵)

大坂の陣に参戦した水野家家臣の人名帳。「宝暦ニ申三月写有之處」とあり、刈谷時代から水野家に仕える小場家が保管していたものを、後世に写したことがわかる。
後半には2代勝俊の陣営に加わった藩士が記されているがその中に剣豪として名高い宮本武蔵の名前が見える。

大坂夏御陣之図

(個人蔵・福山市寄託)

大坂冬の陣終結後、1615年(慶長20年)、徳川方の工作に対して豊臣方は再び軍備にかかったが、それを理由に家康は大坂再征令を下し、夏の陣が起った。泉南樫井合戦を皮切りに、道明寺・八尾・若江の合戦を経て、上町台地に凄絶な最後の決戦が戦われ大坂城は落城、秀頼・淀君らは自刃して、豊臣家はついに滅亡した。
水野家も徳川譜代として冬・夏の陣に参戦しており、特に水野勝成は夏の陣で豊臣方の主力であった後藤又兵衛と道明寺付近でぶつかり、多くの敵将を討ち取るめざましい活躍をしている。その結果刈谷3万石から倍増の6万石で大和郡山へ移封していく。
本図によると本陣である家康のすぐ北側に「水野日向守」とあるためこの辺りに水野家の陣があったことが分かる。更に、後の2代藩主となる勝俊にとってはこれが初陣であった。

三之丸御屋形図

(福山城博物館蔵)

三之丸東側に築かれた藩主屋形の絵図。勝成は最初本丸に、2代勝俊に藩主の座を譲ってからは三之丸西側に住居を構え居していたが、水野勝俊の時代には三之丸東側に藩主館が築かれている。その後入封した松平忠雅、更に阿部正邦以後も代々この東側の館を住居とした。

水野勝重(勝俊)書状【市村沖新田・春日池等に関する書状】寛永19年正月9日(1642)

(福山市重要文化財・福山城博物館蔵)

福山は別作品でも紹介した通り海を埋め立てて造成された町であり、それは勝成以降の藩主にも引き継がれる。農耕地の開墾を目的に1642年頃(寛永19年頃)には市村沖新田、1645年(正保2年)には引野沖新田、1647年(正保4年)には深津沖新田が海を埋め立てると共に開かれている。
しかしこれらの新田は芦田川からの取水ではあまりにも距離が離れており充分な農業用水が確保できなかった。そのために埋め立てに先立って能島と浦上の間に農業用の溜池、つまりは現在の春日池が築造されることとなる。本文書はそうした新田事業に関する勝俊の指示書であり、田畑を多少潰してでもなるべく巨大な池を作るよう命じている。
1642年(寛永19年)初旬に始まった春日池工事であったがそのほぼ1年後である1643年(寛永20年)にはそれが完成しており、本作品には隣国にもないほどの大池の完成に満足している旨記されている。

水野勝重(勝俊)書状【神島町再建ならびに新橋・吉津橋水道工事に関する書状】寛永18年(1641)7月朔日

(福山市重要文化財・福山城博物館蔵)

初代藩主勝成は大手門前を沼隈郡古神島の上・中・下市の商人に与えて城下の繁栄を図ったが、1640年(寛永17年)の火災で焼失したため再建にあたり現・船町に移した。この再建は1641年(寛永18年)の半ばには完成する見込みとあり、また文中「新橋」とは天下橋に対応した、後世で言う木綿橋のことであり、この年に完成したことがわかる。また「吉津橋」とは出雲街道が吉津町に入り南下し胡町に接する吉津川に掛けられた橋のことであり、上水道の整備も資材が揃い順次拡張されたことがわかる。

金幣

(明王院蔵)

本作品が奉納された愛宕(あたご)神社は水野家により福山城守護を目的に勧請(かんじょう)造営されており明王院を別当とする。
3 本の漆塗木製の柄の上部に金銅製の幣(ぬさ)を差し、更にその下から同じく金銅製の垂が備わる。幣には正保5年(1648年)正月に、福山総奉行の荻濃新右衛門と小場兵左衛門との2人が立願成就したことへの御礼言上のため奉納したと刻銘にある。これについて前年の1647年(正保4年)には勝俊が病に倒れているため、この病気平癒に対する感謝の奉納であることが推測される。
『備後国草土村 愛宕山大権現 御宝前 奉寄進御幣 壱柄』
『右意趣者立願成就 皆令満足祈処 正保五年戊子 正月吉日
萩濃新右エ門 小場兵左エ門』

拾八ヶ年以前申年以来御普請在番仕覚(じゅうはっかねんいぜんさるどしい らいおんふしんざいばんのつかいおぼえ)水野美作守(勝俊) 朝比奈・庄田宛 慶安2年(1649)

(個人蔵 茨城県立歴史館保管)

水野勝俊が幕府の公役として勝成の領主時代までさかのぼって朝比奈・庄田の旗本2名に上申した覚書。以下の4つの出来事が記されている。
1、寛永9年(1632年)加藤清正の子忠広改易のときは父勝成と熊本城講取りの任務にあたる。この時、勝成妹で加藤清正正室清浄院を福山に引取る。
2、寛永14年(1637年)江戸城本丸天守の普請手伝役を務める。
3、寛永15年(1638年)天草・島原の一揆が起きてこの年正月に命令が到来し、2月に出陣、帰藩は3月。
4、寛永18年(1641年)勝成の後を継ぎ、2代藩主となって2年目の44才の時備中松山城の定番を命じられた。

信解院殿御臨終記

(妙政寺蔵)

貞門七俳仙随一といわれる野々口立圃(りゅうほ)は晩年である1651年(慶安4年)頃から福山で活動しており、勝成・勝俊・勝貞の3代にわたって俳諧の師として厚遇を受けている。正式に福山藩に召し出されたのは勝俊以降と言われているが、勝成の詠んだ句を称賛するなど関わりは少なからずみられる。
水野勝俊(信解院)の死について「…けふは十七日なりと恩ふ日なにをか御仏にそなへ奉らんとすれど 旅の空ゆく心ばかりにて 桜こそ世々の彼岸の手向草」と嘆きの句を詠んでいる。

福山藩 水野家 3代藩主 水野勝貞(かつさだ)

藩主在任期間
1655年(明暦元年)~1662年(寛文2年)
生没年
1625年(寛永2年)~1662年(寛文2年)

 水野日向守勝貞・1625年(寛永2年)鞆において生まれる。1638年(寛永15年)島原の乱では祖父勝成と父勝俊と共に14歳で出陣する。1639年(寛永16年)には父勝俊家督相続にともない、嫡男として将軍徳川家光に謁見、1640年(寛永17年)従五位下備前守(じゅごいのげびぜんのかみ)に任じられる。
 1655年(明暦元年)福山藩水野家3代藩主として襲封。同年日向守。その後も江戸・福山間を参勤して治世に励んでいたが1662年(寛文2年)、38歳の若さで死去。賢忠寺に葬る。

水野勝貞肖像

(個人蔵 茨城県立歴史館保管)

誰の手による作品であるかは不明だが〝源光院殿前日刕太守傑山宗英大居士〟と勝貞の戒名が入る。現在福山に伝わる勝貞像は若干ふくよかな顔で黒い着物を着ているため、それとは趣が異なっている。また初代勝成を除いて福山藩水野家藩主の肖像は少ないため大変貴重な作品である。

水野備前守(勝貞)書状【福山城修復普請願一件松平出雲守出精の旨報知】水野美作守(勝俊)宛 慶安2年(1649)9月26日

(個人蔵 茨城県立歴史館保管)

徳川家康は諸大名統制のため「武家諸法度」を公布、この内居城修理の許可制と新築の厳禁を定めた。更に修復の際は絵図面を添えて提出し、その通りに修復するよう申し伝えている。日時は不明だがどうやら福山城の石垣が破損したため2代勝俊が幕府にその修理の許可を求め、1649年(慶安2年)に図面の通りに修理することを前提に老中から許可が出ている。
本作品はその件に関して、無事幕府から許可が下りたが改めて嫡男勝貞から国元へ知らせた書状である。本書状内容によれば、塀新築の場合は今までのものを築き直すことは良いが今まで無かった場所に新しく築くことは幕府に届けを行なわなくてはならない旨注意が促されている。広島藩福島家の件もあるためか相当幕府に気を遣っていることが分かる。

老中奉書【備中国山境訴訟落着ほかについて】水野日向守(勝貞)宛 万治3年(1660)5月23日

(個人蔵 茨城県立歴史館保管)

具体的な場所は不明であるが福山藩領と別領の間でその境について論争が起きたようである。この時水野家臣竹本三郎右衛門が、奔走しこれが水野領であることの論拠をなしたことによって、幕府がこれを認め、その功績に対し将軍家より時服(褒美)が下賜された。これに対し勝貞が御礼状を幕府に提出したことに対する返書である。
本文中の彦坂平九郎は400俵の旗本で、1660年(万治3年)幕命により、備中国の論地を検した人物。

玉幡(ぎょくばん)

(明王院蔵)

明王院は芦田川右岸の愛宕山山麓に朱塗りの堂塔をのぞかせて建つ真言宗大覚寺派の古刹で、江戸初期まで西光山理智院常福寺と呼ばれていた。境内には国宝の五重塔と本堂、県重文の山門(大門)・庫裡・書院など多くの建造物が建ち並ぶ。3代勝貞は常福寺に神島町の歴代藩主の祈願寺となっていた明王院を合併し、寺号を明王院と改めている。
水野勝成入封後、住職宥仙(ゆうぜん)が築城時に地鎮斎主を勤めて以来、歴代藩主の祈願所となった。それから後も水野家は明王院へ毎年祈?料・給米・扶持米など約40石、その他の援助も度々おこなっている。
玉幡とは本来各種の玉を連ねて幡形にしたものを指し、種々の功徳があるとされる。曼荼羅(まんだら)供養の時に用いるもので龍頭(りゅうず)下顎に備えられた金具に懸け吊るす。

龍頭

(明王院蔵)

先に紹介した玉幡を吊り下げる飾具。そのため龍の下顎には玉幡を吊るすための金具が備わっており竿の先に挿して掲げる。
本作品を納める木箱には「水野日向守勝貞老母清春院寄付也」と墨書があり2代勝俊側室の奉納であることが分かる。因みにその清春院を祀る寺町洞林寺(浄土宗)は1619年(元和5年)沼隈郡神村から移転したもので、勝貞・勝種それぞれの母の墓所である。

本庄重政自作肖像

(承天寺蔵)

松永塩田は福山藩の近世初期における新田開発の一環、いわば藩営工事として家臣本庄重政により行われている。重政の活躍については1656年(明暦2年)の沼隈郡柳津新田、1659年(万治2年)の高須新涯等、専ら干拓事業が挙げられる。そして1660年(万治3年)には松永干拓に着工している。町を設けて商人を呼び寄せることで1667年(寛文7年)には塩戸税銀100 枚を藩に収めており、更に幕府の許可を得て松永と命名している。
また本庄重政とは尾張の出で1638年(寛永15年)島原の乱に寺沢兵庫守(ひょうごのかみ)の陣に参じ丹波式部少輔(たんばしきぶのしょう)の家臣となる。1639年(寛永16年)岡山池田家に召し抱えられた後、1654年(承応3年)水野家に召し抱えられた人物。本作品はその本庄重政が自作した肖像である。

松永沿岸図屏風

(福山城博物館蔵)

福山市の西側に位置する松永とその沿岸部を描いた屏風絵。
松永は3代勝貞~4代勝種の代に福山藩士本庄重政により1660年(万治3年)から干拓が進められた土地であり、約10年の歳月をかけて塩田を完成させている。「松永」と名付けられたのもこの頃と言われており、延々と広がる塩田と左隻下に潮崎神社が描かれている。

福山藩 水野家 4代藩主 水野勝種(かつたね)

藩主在任期間
1663年(寛文3年)~1697年(元禄10年)
生没年
1661年(寛文元年)~1697年(元禄10年)

 1661年(寛文元年)江戸において生まれる。1662年(寛文2年)父勝貞の死により、翌1663年(寛文3年)家督相続、その後将軍家へ御礼言上(おんれいごんじょう)、1668年(寛文8年)江戸城火消役を仰せ付けられ、1675年(延宝3年)には従五位下美作守に任じられる。
 1677年(延宝5年)酒井雅楽頭忠清女(さかいうたのかみただきよむすめ)を娶る。1679年(延宝7年)帰国の暇を得て、同年はじめて福山に入城するも、1688年(元禄元年)には西丸修復普請手伝(にしまるしゅうふくふしんてつだい)、1689年(元禄2年)江戸城奥詰など幕政においても活躍し、1697年(元禄10年)津山城受取を命ぜられたが、その出発の直前に病のため37歳で急死。賢忠寺に葬る。
 寺社仏閣への崇敬も高く、当時福山藩領であった笠岡白石島開龍寺への御供所等建築物の寄進、1683年(天和3年)には城下にあった2つの八幡宮を現在の地に福山総鎮守として遷す等その活躍は藩内各地に見られる。

水野勝種肖像

(個人蔵 茨城県立歴史館保管)

1793年(寛政5年)に賢忠寺の宝物を写したものであると水野勝剛の謹書(きんしょ)が入る。勝剛とは水野家11代当主(下総結城水野家6代)のことであり、元となった作品も1746年(延享3年)に描かれたものであるため先祖の功績、そして自分の家柄を振り返り後世に伝えるため等に描かれたと推測される。

厳有院様領地之目録(げんゆういんさまりょうちのもくろく)【備後国沼隈郡外10万1012石6斗知行のこと】水野民部(勝種)宛 寛文4年(1664)4月5日

(個人蔵 茨城県立歴史館保管)

1664年(寛文4年)、つまり勝種が4代藩主に就任した翌年に出された領地状で合計101,012石余の福山藩領が記される。差出人は奏者番・若年寄・京都所司代を歴任した永井伊賀守尚庸(なおつね)と三河吉田藩主で当時奏者番であった小笠原山城守長矩(ながのり)。
目録 備後国
沼隈郡之内 参拾六箇村
山田村 赤坂村 山手村 郷分村 地頭分村
西村東村 本郷村 神村 高須村…

上田玄蕃(げんば)愛用 香炉

(妙政寺蔵)

2代勝俊を弔う妙政寺(法華宗)は天正年間刈谷に建立された後、家老上田家の菩提寺として藩主と共に福山に遷されてきた。東町から現在の地に建立されるのは勝俊の13回忌を控える1666年(寛文6年)であり水野家城代家老、上田玄蕃直重の手による。
本作品は1677年(延宝5年)に亡くなった直重愛用の香炉であり、妙政寺北側農道の拡張工事が行われた際に、移転に伴う発掘調査で直重の墓内から出土したもの。因みに直重墓は現在水野勝俊墓地内に移転されている。

福山城下家中町絵図

(福山誠之館同窓会蔵)

福山城下を描いた絵図で、やはり他作品と同様に町人屋敷・武家屋敷を色分けで描いている。
本作品の最大の特徴としては現在の地に遷される前の福山八幡宮が描かれている点である。現在の福山八幡宮は1683年(天和3年)に勝種により新町にあった延広八幡(東の宮)と野上にあった野上八幡(西の宮)を対等合併するかたちで現在の場所に遷したことが始まりであり、本作品も確かに南東側新町と南西側野上の辺りに〝八幡宮〟と記されている。現在の地に両社八幡として遷された後も、水野家から寄付米、扶持が与えられることで保護され、更に1739年(元文4年)には阿部正福(まさよし)により修繕が行われている。
先述した通りこの両社八幡が現在の地に遷されたのは1683年(天和3年)であるため本作品はそれ以前の福山城下の様子を描いたものである。

生類憐みの令遵守の請書(しょうるいあわれみのれいそんしゅのうけしょ)貞享4年(1687)1月

(福山市重要文化財・個人蔵 福山城博物館寄託)

生類憐みの令とは5代将軍徳川綱吉により制定された、「生類を憐れむ」ことを目的とした諸法令の通称。幾度か要項が追加されているが譜代藩であった福山藩でもその尊守は必須であり、村民と代表して庄屋がその宣誓を誓った証文。
幕府から藩に対して出された法令を今度は藩から各村へ申し付け、それを庄屋が代表して取りまとめるといった機構が整備されていたことを窺い知ることができる。

石見銀山地図

(福山城博物館蔵)

1682年(天和2年)、水野勝種及び福山藩は石見国大森銀山に非常のことがあれば、浜田城主松平周防守(すおうのかみ)とともに直ちに人数を繰り出すよう申し付けられている。
1600年(慶長5年)関ケ原の戦いの後、石見銀山は徳川氏の直轄地となり、奉行・代官が置かれていたが、天領の治安維持は山陽筋における唯一の譜代大名であった水野家の西国鎮衛としての役割の一つであった。
本作品は後世のものだが、南側、現在大田市大森町の辺りは銀山開発・管理のための代官所や豪商が軒を連ね賑わっている様子が分かり、赤線により海路を繋ぐ陸路が記される。

福山藩 水野家 5代藩主 水野勝岑(かつみね)

藩主在任期間
1697年(元禄10年)~1698年(元禄11年)
生没年
1697年(元禄10年)~1698年(元禄11年)

 水野勝岑・はじめ内蔵丞(くらのじょう)、松之丞と称し、1697年(元禄10年)福山において生まれる。この年勝種の急死により家督を継ぐも、この時わずか1才であった。1698年(元禄11年)には参府のため福山を発駕するも、途中病にかかり同年江戸にて2才という若さで亡くなる。江戸常林寺に葬る。
 藩主不在、所謂お家断絶を迎えることとなった福山藩は武家諸法度により取り潰し、水野家及び家臣は福山からの退去が下される。とは言え徳川家に功のある水野家であるため、結果的に勝成曾孫(勝俊弟である勝忠の孫)の勝長が水野家を継ぐことが許されるが、与えられた石高は福山から遠く離れた能登国(現在の石川県)、わずか1万石であった。その後結城藩へ移封となり現在まで続いていく。

水野勝岑所用 紺絲威童具足(みずのかつみねしょよう こんいとおどしわらべぐそく)

(賢忠寺蔵)

水野勝岑所用の童具足。童具足とは武家が元服の際などに制作した子ども用の甲冑のことで、大人のものに比べると全体的に小ぶりである。
本作品は唐冠形の変わり兜に脇立・獅噛を備えており、福山藩初代勝成の具足を思わせるような作りとなっているが、熊毛と革包で仕上げてある勝成所用のものと異なり黒漆塗で仕上げ、またヤクの毛であろうか後立を挿した冠部分には水野家家紋の“抱き沢瀉(おもだか)紋”が施されている。また童具足といっても有力大名の所用であり、全体を札(さね)と呼ばれる無数の板で構成した本小札と呼ばれる、手間のかかる手法で制作されている。

酒井雅楽頭忠挙書状(さかいうたのかみただたかしょじょう)【家中動揺せぬ様にとの指示書】水野玄蕃 小場兵左衛門宛

(福山市重要文化財・福山城博物館蔵)

水野勝岑が亡くなった翌日に酒井雅楽頭忠挙が在福山の2家老、水野玄蕃・小場兵左衛門宛に出した書状。
福山藩水野家5代勝岑は1698年(元禄11年)に江戸で死去し、その継嗣の断絶により改易(かいえき)となった。継嗣断絶によって領内は動揺し、家臣たちは取り乱していたが、この際に藩内の動揺を鎮めて平穏に事を運ぶよう指示している。
水野家と酒井家について、3代勝貞は酒井讃岐守忠勝の娘と、4代勝種は大老酒井雅楽頭忠清の娘と婚姻関係を結んでいることから生じたとみられる。水野家の存続という重大事について相談したのであろう。

福山城受取絵図

(福山誠之館同窓会蔵)

勝岑死去の後、幕府は福山城請け取りの為に上使の摂津尼崎青山播磨守(はりまのかみ)、城請取りの伊予今治松平駿河守(するがのかみ)と安芸三次浅野土佐守(とさのかみ)、更に在番の讃岐丸亀京極家の4家を使節団として送り込んだ。
本作品はその4家の福山城下への進入路並びに宿陣地を図示したものである。
陸路北方からは、青山家と浅野家とが、海路南方からは松平家と京極家が進行している。青山家の本陣は三之丸家老屋敷に陣取り、家中は入川沿いの南浜に入った。浅野家の本陣は大黒町の江良屋と鍵屋屋敷で、家中は目抜き通りの胡町・大黒町に宿陣している。松平家は鞆津に着船し鞆の町中へ泊って、芦田川二股あたりを渡って古野上口から城下へ入り、本陣は神島下市の隅屋屋敷に入り、家中は神島三町・医者町・藺町と南浜あたりまで広がっている。京極家は田尻あたりに着船し、葦田川東岸五本松から道三口へと進み城下に入る。城東の侍屋敷のほとんどを宿陣地としていることが分かる。

水野家福山在城時代諸臣分限帳(みずのけふくやまざいじょうじだいしょしんぶんげんちょう)

(福山市重要文化財・福山城博物館蔵)

1698年(元禄11年)、福山藩水野家が改易となった際の分限帳である。分限帳とは水野家の家臣名とその要職(家老・奉行等)、禄高(ろくだか)や扶持(ふち)が記される、いわば福山藩士のメンバー表である。5代勝岑の後を勝長(勝俊弟の孫)が継ぐことで水野家は存続していくが、その領地は1万石余りであり、全ての家臣を召し抱えることは不可能であったため、多くの藩士は浪人生活を余儀なくされ、また農民として福山に留まる者もいた。
本作品は後世にも加筆されており、タイトルに「福山在城時代」とあるが、福山を離れて後に治めることとなった結城藩時代に召し抱えられた家臣も併せて記載されている。

水野家時代福山城下明細地図

(福山城博物館蔵)

勝種から勝岑(かつみね)の時代と推測される城下絵図。
他の城下絵図と同様に福山城の周りには武家屋敷が広がりそこに住む藩士の名が細かく記載されている。
また福山城下を描いた絵図は多くあるが、本作品は海側の野上や水呑、五重塔がそびえる明王院、北は神辺近隣の紹介など城下の周りまで広範囲にわたって記載している。更に1661年頃(寛文頃)に干拓された川口新涯が既に完成しており、海を埋め立てることで成立してきた福山城下の成り立ち、そして水野時代に、ほぼ現在の福山の姿が完成されていたことを窺い知る貴重な作品と言える。