福山城デジタルアーカイブ

歴代藩主 水野勝成から16代藩主 阿部正桓までの歴代藩主の紹介や古地図・古写真などの資料から見える
福山城の姿を「福山城デジタルアーカイブ」として紹介します。

福山藩 阿部家 初代藩主 阿部正邦(あべまさくに)

藩主在任期間
1710年(宝永7年)~1715年(正徳5年)
生没年
1658年(万治元年)~1715年(正徳5年)

 1658年(万治元年)阿部家5代当主として武蔵国で生まれた。1671年(寛文11年)父定高の遺領であった武蔵国岩槻(むさしのくにいわつき)を襲封したが、1681年(天和元年)丹後国宮津(たんごのくにみやつ)、そして1697年(元禄10年)宇都宮へと転封を重ね、1710年(宝永7年)53歳で備後国福山に入封する。ここから明治時代まで福山藩阿部家の歴史は始まる。
 入封後は、石高・戸口・牛馬数・木綿などの商品作物・水野家浪人の居住の有無などを記した差出帳を全ての村々から提出させた他、升改めの実施や、喧嘩・盗難の取り締まりといった治安維持を目的とした35ヶ条の条々の発布等、領主交代による動揺を収めて領内の掌握に勤しんだ。1713年(正徳3年)頃までには領国の実情を把握したようだが、1715年(正徳5年)江戸において死去した。
 阿部家について、初代の正勝は家康が今川家の元で人質生活を送っていた時期から近待している。更に2代正次は徳川秀忠に代わり大坂冬の陣終結後に徳川方の代表として豊臣方と和平交渉を行う等、水野家や松平家と同じく代々徳川家に仕える譜代の家柄である。

阿部家傳

(福山城博物館蔵)

阿部家歴代の藩主の履歴と功績を書き上げたもの。
阿部家は藤原氏の通兼(みちかね)流で、祖正勝の祖父である正俊が三河国の「あこだ」を領有したのがはじまりとする。また正勝は、幼少の徳川家康が今川義元の元で人質生活を送る頃からの近習であるため、正に阿部家は譜代大名の家柄といえる。
本作品は正俊からはじめ福山藩阿部家5代正精までを収録しており、1811年(文化8年)に完成し、その2年後の1813年(文化10年)に幕府に提出されたことが記されている。

宮津御城渡就御用覚帳(みやずおんしろわたりにつきごようおぼえちょう)

(福山城博物館蔵)

1681年(天和元年)武蔵国岩槻から丹後国宮津へ移封となった阿部正邦だが、1697年(元禄10年)今度は下野国宇都宮へ移封となる。本作品はその移封、いわゆる引っ越しの記録をまとめたもの。阿部家家臣団の名前を役職と共に並べ、運ばれた荷物を記した道具帳、幕府役人との協議内容を日ごとに記録した日誌の他、後に宮津を納める大名の為であろうか宮津城が備える櫓等の機構と領内の地名と石高をまとめた水帳の写し等が1冊にまとめられている。

阿部氏宇都宮城下図

(福山城博物館蔵)

宇都宮城とは元は宇都宮市にあった古代~近世の平城で近世初頭に蒲生秀行・本多正純が入境し改修を加えた。本丸を中心に同心円状に郭が配置され、要所には枡形門(ますがたもん)や馬出しが普請されていた。近世には日光東照宮が近いことから参拝する将軍の宿泊地となる等、交通上の要所であったため10万石程度の譜代大名が入れ替わり居城している。
阿部家5代(福山藩初代)正邦が1697年(元禄10年)10万石の領主として入城、そして1710年(宝永7年)に今度は福山へ移封、ここより福山藩阿部家の歴史が始まる。

阿部家家紋入雲龍文蒔絵鞍鐙(あべけかもんいりうんりゅうもんまきえくらあぶみ)

(個人蔵・福山城博物館寄託)

鞍の四方の他、随所に阿部家家紋である“丸に違い虫喰鷹ノ羽”が施される鞍鐙。
漆を何重にも塗り重ね、模様を大きく浮かび上がらせる高蒔絵(たかまきえ)と呼ばれる手法で雲龍が描かれている。鞍裏面には制作者である“直政”という銘と“万治二年(1659)十二月廿七日“と制作年が彫られる。直政とは万治~寛文の頃紀州で活躍した鞍師である。
残念ながら所用者は判明していないが、当時の阿部家は1659年(万治2年)に阿部家4代定高が没したが、その子である正邦(まさくに)はその前年に生まれたばかりでまだ若年であったため、藩主の代理として定高弟の正春が阿部家を取りまとめていた時代である。よって本作品は正春所用又は、1658年(万治元年)に生まれた正邦の誕生を祝って制作された可能性がある。事実有力な武家の家では男子出産の祝いとして童具足等の武具類を制作する習わしがある。

阿部正邦筆 白楽天潯陽江(じんようこう)之図

(福山歴史資料室蔵)

白居易(白楽天)作、中唐の長編叙事詩である「琵琶行」をモチーフとした阿部正邦の作品。江州に左遷された白居易が、潯陽江で琵琶を舟中で聞くという七言古詩で様々な小説や文学に影響を与えている。こうした古典文学や能をモチーフとして作品を認(したた)めることは多くの藩主、藩士に見られるもので、戦のなくなった江戸期において大名たちの教養を示す嗜みの一つであった。それは福山藩でも同様で、2代藩主正福(まさよし)が能の演目である「雨月」を題材に描いた作品等が遺る。

福山藩 阿部家 2代藩主 阿部正福(まさよし)

藩主在任期間
1715年(正徳5年)~1748年(寛延元年)
生没年
1700年(元禄13年)~1769年(明和6年)

 阿部正邦の4男として1700年(元禄13年)江戸藩邸で生まれた。1713年(正徳3年)嗣子(しし)となって7代将軍徳川家継に謁見し、翌年従五位下伊勢守(じゅごいのげいせのかみ)、1715年(正徳5年)父正邦の死去によりその遺領10万石を弱冠16歳で襲封した。
 1745年(延享2年)に47歳で幕府直轄地である大坂城を総監する大坂城代に就任。これによって阿部家が譜代の名門として幕閣へ登場する足がかりを掴んだと言える。
 だが、大坂城代は病気のため2年程で辞任し翌1748年(寛延元年)に家督を嗣子正右に譲り、33年の藩主任期を終えて隠居した。その後、1769年(明和6年)70歳で死去。

阿部正福(まさよし)自画像

(福山歴史資料室蔵)

正福自筆の肖像画で56歳の姿を写すとある。阿部家歴代肖像画では唯一自筆の肖像である。款記は「従四位下阿部伊勢守藤原正福朝臣 五十六歳姿自筆画之」で印は無い。

阿部正福(まさよし)自画像・徳正院画像

(福山歴史資料室蔵)

従四位下阿部伊勢守藤原正福朝臣
五拾八歳姿自筆畫

正福と妻である徳正院が内裏雛様式で仲睦まじく並んだ姿で描かれる。先述した正福自画像と同じく正福の筆。また本作品には懐に忍ばせていたのか縦10.6㎝、横16.3㎝の同じ構図のミニチュア版が存在している。自筆肖像画は56歳の時のものであったが、本作品はそれより2年後、58歳の時のものである。

江戸丸山藩邸之図

(福山城博物館蔵)

江戸丸山(現在の文京区丸山)に与えられていた福山藩の屋敷絵図。参勤交代制により、いずれの大名も江戸に藩邸を設けており、留守居役江戸詰の家臣を置いていた。阿部家の場合幕政に携わることからも藩主が江戸に在住することが多く、それに伴ってであろうか家臣も全体の40%、千人近くが江戸常駐であった。本作品は1726年(享保11年)のもので62,437坪の敷地の中に家臣の名前や鍛錬の為の弓矢場、神社等が描かれている。また本作品の他に文化年中(1804年~1818年)作成された江戸屋敷図もあり、そちらには福山藩阿部家3代藩主正右が祖正勝を弔うために建立した勇鷹神社が描かれている。

福山藩大坂家中屋敷割図

(福山城博物館蔵)

冬・夏の陣以降大坂は大坂城含め幕府の直轄地となり、大坂城代が置かれた。大坂城代とは江戸幕府の職名で大坂城に駐在して城の守護にあたり、政務を統轄する役職のことで西日本諸大名の動静の監察もその役割の一つであった。将軍に代わる重職のため原則として5万~6万石以上の譜代大名から選任されており奏者番・寺社奉行から転任し、京都所司代、そして老中へ進む昇進コースの一つとされた。
福山藩阿部家の中では正福が1745年(延享2年)から2年間就任しており、福山を離れ大坂在住となった家臣団の名前が記されている。

阿部正福(まさよし)筆「白澤之図(はくたくのず)

(福山城博物館蔵)

白澤は鳳凰などと同じく有徳な王者の治世に出現するという中国の想像上の神獣で、牛のような角を備え、本作のように額に第三の目を据えた人の顔、同じく三つの眼を備える胴体を持つ姿等で描かれる。また魔除けとして日光東照宮拝殿の杉戸にも描かれており、龍等と同じくその特性から武家に好まれるモチーフである。

福山藩 阿部家 3代藩主 阿部正右(まさすけ)

藩主在任期間
1748年(寛延元年)~1769年(明和6年)
生没年
1724年(享保9年)~1769年(明和6年)

 1724年(享保9年)、正福の次男として江戸藩邸で生まれ、1748年(寛延元年)25歳で10万石を襲封し、翌年には従五位下伊予守(じゅごいのげいよのかみ)に任じられている。
 その後、幕閣への道を歩み初め、1752年(宝暦2年)29歳で奏者番(そうじゃばん)に補任されてから同職9年、1760年(宝暦10年)から京都所司代、そしていよいよ1764年(明和元年)から老中を5年間と、江戸あるいは京都に居住して栄進し続けた。
 藩主在任期間は20年、そのうち幕府の要職には17年ということとなった。正右の藩主在任中の主な課題は、藩財政の緊迫状態からいかに脱出させるかであった。畳表・綿・塩などの特産品から運上銀(うんじょうぎん)の増収をはかる他、経済活性化のために1756年(宝暦6年)、1764年(明和元年)には藩札(宝暦銀札、明和銀札)を発行するなど、藩内の緊縮政策をはかるも1769年(明和6年)、46歳の若さで老中在職のままで死去する。

御奏者番心得

(福山歴史資料室蔵)

奏者番とは江戸幕府の職名で、年始・参勤就封・相続・遠国寺社の御目見などの際、将軍に謁見する大名らの披露や進物・下賜品の受渡しなどに携わる他、御三家・大名家への上使の役割も持っていた。無定員で20~30人、1658年(万治元年)以降その中から兼帯職として寺社奉行が選ばれるため、幕政における出世コースの登龍門であった。譜代大名はこの役を振り出しに老中・若年寄以下の重職に昇進するが福山藩阿部家もその例外ではなく、3代正右から7代正弘までがこの役職に就き寺社奉行や老中等様々な役職に昇進している。
本作品は合計9冊あり、日本中の大名の石高や江戸城内における儀式が纏められており、懐に忍ばせていたことが想像される。

御西丸席図

(個人蔵・福山市寄託)

正右は1764年(明和元年)に西丸老中、半年後に本丸老中兼任、翌年に老中の役に就任しているため正右所用と推測して紹介する。
江戸城御殿内における部屋割りだけでなく、役職に応じた座席の位置も記されている。譜代、外様といった大名の立場で江戸城内における控えの部屋や席は決まっており、御奏者番心得と同じく懐に忍ばせ、江戸城西丸内における儀式の際等に使用したと思われる。

朝鮮通信使往復書翰(しょかん)朝鮮国禮曹(れいそう)へ返翰

(福山歴史資料室蔵)

朝鮮通信使とは、朝鮮国王が書契(国書)および進物をもって足利将軍・徳川将軍に派遣した外交使節団をいう。江戸時代には12回に及んで来朝したが、この作品は1764年(明和元年)第11回のものでその際に京都所司代の職にあった正右と通信使との往復書翰である。
通信使の来聘理由は、将軍襲職の祝賀のためであり、阿部正右へは朝鮮国から虎皮・豹皮・人参・色紙等を、また正右からは返礼として白銀・綿を進物とした。

紫組冠懸緒免状(むらさきくみかんむりかけおめんじょう)

(個人蔵・福山市寄託)

蹴鞠為門弟紫組冠懸之事窺叡慮処免之如件
宝暦十年十二月三日 雅香
福山侍従殿
冠の懸緒は元来蹴鞠の時に限って使用されており、中でも紫色の懸緒は高貴な身分を表すものとして重視された。室町時代以降は蹴鞠の場以外でも参内等の際に組懸緒を用いるようになるが、16世紀中、紫色の懸緒の着用は飛鳥井家の勅許が必要となる。更に近世に入ると従四位下侍従に任官すると参内用の正装として紫組冠懸緒が必要となったため、礼金、入門料を支払うことで形式的ではあるが飛鳥井家と門弟契約を結び、その着用許可を得るようになる。
本作品は1760年(宝暦10年)、正右が京都所司代就任の2か月前、正に順当に出世していく過程で発行されたもの。

阿部正右筆「武田信玄之像」

(福山歴史資料室蔵)

武田信玄は1521年(大永元年)甲斐の生まれの戦国武将であり、越後の上杉謙信との間で行われた川中島の戦いにおける一騎打ちの逸話はあまりにも有名である。そうした武勇から江戸期に入り歌舞伎や武者絵のモチーフとされ人気を博した。
本作品は正右が描いた武田信玄像。大袖・栴檀(せんだん)・鳩尾(きゅうび)の板と絵韋(えがわ)を貼った大鎧風の出で立ちであるが、口元には牙を生やし、右手には直刀である剣を持ち、背後から火炎があがる姿など戦国武将としてよりも毘沙門天を意識したのか神のような出で立ちで描かれている。

福山藩 阿部家 4代藩主 阿部正倫(まさとも)

藩主在任期間
1769年(明和6年)~1803年(享和3年)
生没年
1745年(延享2年)~1805年(文化2年)

 1745年(延享2年)、前藩主7代正右の3男として江戸藩邸で生まれる。1769年(明和6年)、25歳で正右の遺領を襲封し、1774年(安永3年)には奏者番となり、1779年(安永8年)寺社奉行兼任、そして1789年(天明9年)、老中に昇進し従四位下伊勢守(じゅしいげいせのかみ)に任じられた。藩主就任後の藩政の課題は前代以来の財政難の克服にあり、また、福山地方は連年の大凶作で、襲封翌年の1770年(明和7年)には百姓一揆が起こった。更に1786年(天明6年)暮れから翌1787年(天明7年)にかけては再び天明の百姓一揆となり、正倫はわずか11か月余の在任で老中を辞任し、その後は本格的な藩政改革に取り組んでいる。
 正倫の治世はその前半は江戸にあって幕閣の要職の歴任に、後半は藩主として領国支配体制の再編成、もっぱら藩財政の立て直しに苦心したといえる。また正倫は1803年(享和3年)に致仕しているので藩主在任期間が34年余、福山阿部家10代中最も長い。

錆地三十八枚四方白星兜(さびじさんじゅうはちまいしほうしろぼしかぶと)

(備後護国神社蔵)

八幡座を備えた鉄錆地の三十八枚張兜で、四方に地板と前3条・それ以外に2条の篠垂を垂らす。鍬形の中心、吹返しに阿部家の家紋である“丸に違い虫喰鷹ノ羽”を据える。 は黒漆塗本小札3段で内側に金陀美を施す。
鉢は南北朝時代の作。江戸期に江戸明珍家によって八幡座、篠垂(しのだれ)、眉庇(まびさし)、 (しころ)など付属の部品はすべて新調しているが古格を失わない名品である。

備後州深津郡福山城全図

(福山城博物館蔵)

福山城内を描いた絵図。1774年(安永3年)に阿部家家臣内藤角右衛門が大目付へ控えとして提示した紙本著彩の大絵図面を元に、明治時代に福山の郷土史研究家高田雄信が描き写したもの。
本丸南東側の月見櫓を〝一番二重御櫓〟といった表記で番号を振ることでその名前までは記していないが、城内建造物についてその全てを階層含め記している。更に石垣中の階段位置や櫓を繋ぐ渡り櫓、阿部家時代には南側のみとなっている本丸御殿の部屋割りまで描かれており、当時の福山城の様子を窺い知る作品と言える。

阿部正倫筆「孔子画像」

(福山誠之館同窓会蔵)

正倫は藩士の組織的教育の実施をめざして、1786年(天明6年)福山西町の西堀端に、藩校「弘道館」を創設した。優秀なものは他国に遊学させ、教育内容を充実させるために民間から学者を登用し、更に出席率を憂慮してか月次講釈に出席した藩士の名前を江戸に在住する自身の元まで報告させる等、藩士教育に熱心に取り組んでいる。
弘道館では、この孔子画像を毎年の発会式に掲げ拝覧するのを例としており、これは誠之館においても引き継がれた。画像の左端に「倣王元章図 時惟寛政歳次庚申秋九月灑毫於緒水館謹写」とあり、中国元末明初に画家である王元章(1335~1407)の画風を模倣して正倫自ら筆をとったことが分かる。儒教精神の高揚に心をくだいたのである。

若松文赤楽茶碗 銘「初日」阿部正倫作

(福山歴史資料室蔵)

高台横に「福山土」の陰刻あり。楽焼は京都の楽家で桃山時代以来現代まで焼継がれてきた、茶道専用の黒・赤茶碗などの容器をいう。楽印を拝領したことから楽焼と呼ばれるようになる。
本作品は胴から高台脇へ向けて若松文を入れた赤楽茶碗で、銘は「初日」とある。また、正倫の手製で福山の土をもって焼成したため「福山土」と入れたと箱の蓋裏にその由来を記している。

阿部正倫筆「富士越之龍図」

(福山歴史資料室蔵)

富士山と龍を組み合わせて画面に配する、いわゆる「冨士越龍図」と称される作品は、近世期に登場して以降現代まで主要な絵画主題とされてきた。江戸期に描かれた冨士越龍図の多くは、出世や不老長寿の吉祥図像と見なされる。
正倫は当時武家の間で一般的だった狩野派に学んでいる。

福山藩 阿部家 5代藩主 阿部正精(まさきよ)

藩主在任期間
1803年(享和3年)~1826年(文政9年)
生没年
1774年(安永3年)~1826年(文政9年)

 前藩主正倫の3男として1774年(安永3年)に江戸で生まれ、1788年(天明8年)従五位下備中守(じゅごいのげびっちゅのかみ)、1793年(寛政5年)対馬守(つしまのかみ)、同年主計頭(かずえのかみ)、1803年(享和3年)、30歳の壮年で襲封した。彼もまた父祖と同じく幕閣への道を歩みはじめ、1804年(文化元年)に奏者番、1806年(文化3年)寺社奉行兼任、そして1817年(文化14年)45歳で老中に任ぜられる。1823年(文政6年)病気のため老中を退任するが幕閣歴任21年の内、通算19年間も重職にあった。
 正精の藩政に対する基本方針は先代正倫の政策の継承、つまりは藩財政の再建に重点が置かれており、中でも農村対策が挙げられる。1805年(文化2年)府中市の社倉や深津郡の宝講とともに、豪農商層が農村荒廃を救済するための全藩的機関である福山藩義倉を設立している。

阿部正精肖像画
吉田洞谷(とうこく)

(福山歴史資料室蔵)

作者の吉田洞谷(蘭英斎)とは幕末から明治にかけて活躍した狩野派の絵師。1846年(弘化2年)正弘に初見得し、御側絵師12石12人扶持となり、父洞京の家督10人扶持を継ぐ。1863年(文久3年)福山に引っ越した後も長州戦争・箱館戦争に絵師として従軍、1870年(明治3年)藤井松林と共に誠之館画学小教授心得となり、廃藩後は東京に帰る。
よって正精と時代は合致しないため、本作品はおそらく福山藩からの依頼で後世何かしらの作品を元に描かれたものと推測する。

菅茶山肖像画 岡本花亭賛

(重要文化財菅茶山関係資料・提供 広島県立歴史博物館)

菅茶山は1748年(寛延元年)に備後神辺宿に菅波久助の長子として生まれ、18歳の時から学に志し、京都に上って朱子学・古医学を学ぶ。1781年(天明元年)、はじめて私塾「黄葉夕陽村社(こうようせきようそんしゃ)」を開き、村童に初等の学を教授する。これは後に福山藩の郷校として許可され、またの名を「廉塾」と呼ぶようになった。
1792年(寛政4年)には阿部正倫の指示により五人扶持を賜り、その後藩の要請を受けて1801年(享和元年)正式に儒官となり藩校弘道館に出講するようになる。
1803年(享和3年)には正精の要請を受け1804年(文化元年)と1814年(文化11年)の2回、江戸に滞在して正精直属の教授として仕えた。頼山陽、北條霞亭、門田朴斎に代表されるように、その交友関係は凄まじく、また遺した漢詩の作品は数千に及ぶ等、江戸時代後期の備後が生んだ冠たる詩人、教育者といえる。
本作品は茶山70歳の時の姿で幕臣岡本花亭の賛が入る。

福山志料

(福山歴史資料室蔵)

江戸時代、特に元禄以降において幕府をはじめ諸藩の間に地誌の編纂事業が盛んに行われるようになった。正精の命により、1805年(文化2年)吉田豊功を長として藩儒学者や福山藩士、更に特命により菅茶山がこれに加わり編纂されたのが本作品である。全編35巻、1809年(文化6年)に完成。
内容は藩内各地の古代から近代における石高(こくだか)・名勝・風俗・古跡・各村々の特産物の他、古文書・芸文、多くの郡村名勝の図絵等多岐に及ぶもので、福山の郷土史を学ぶ上でも重要な作品といえる。また先述したようにその圧倒的な情報量から編纂者達の並々ならない情熱が窺える。

城北松山勇鷹社・天神社図

(福山城博物館蔵)

福山城北面に鎮座する勇鷹神社と幕末に城下に遷されることとなる天神社を描いた絵図。
勇鷹神社とは1765年(明和2年)福山藩阿部家3代正右が江戸丸山藩邸内に祖正勝の廟を創建し、後に歴代の祖霊を合祀したことを始めとする。その後1812年(文化9年)に正精が現在の城背、天神山に社殿を造営して遷座し、勇鷹神社と称している。それより後、1956年(昭和31年)に社殿を補修し、更に戦災により焼失した備後護国神社を遷すことで現在の様相となる。

孔子銅像(阿部正精下賜)

(福山誠之館同窓会蔵)

中国明代(14世紀後半~15世紀初頭)に鋳造されたと伝わる中国製の孔子像。
孔子(前551~479)は中国春秋時代の思想家で名は丘・字は仲尼。儒教の祖とされ、封建体制下では儒教は支配者階級にとって体制維持に欠くことのできないものとして重宝された。
正精の学問に対する関心は甚だ高く、その意の賜物であろうか江戸詰め藩士子弟教育のために1818年(文政元年)江戸丸山邸内に「丸山学問所」を建設している。この「孔子銅像」は正精がその丸山学問所に下賜したもの。

阿部正精筆「柳小燕図(やなぎしょうえんず)

(福山城博物館蔵)

「癸丑歳抄写 紫関 印印」白文方印
「正精之印」朱文方印「子純」

正精20歳の作品。正精は若年時に中国清の画家である沈南蘋(しんなんびん)派に学んだと言われ、やはり同派の宗紫岩、そしてその弟子である宗紫石を意識してか紫関の号を持つ。
正精の特徴として「詩書画三絶」と称えられる程のまれにみる文人的な才能が挙げられる。更に正精の関心は儒学・国学の他、洋学・天文学等多岐に渡り、有識者を積極的に徴用することで自らも学んだ。

阿部正精筆「冨士之図(松平定信賛)」

(福山歴史資料室蔵)

冨士は不死に繋がることから、またその荘厳な姿から多くの作品でモチーフとなっている。また本作品は正精筆の冨士の図に寛政の改革で名高い松平定信が画賛を入れる。
正精が奏者番に就任したのが1804年(文化元年)であるのに対し、1793年(寛政5年)には既に定信は老中首座を辞している。よって幕政内における関わりはないものと思われるが、正精の号が晩年の作品に見られる〝棕軒(そうけん)〟を一文字変えた〝棕堂〟であることや、定信印である〝華月〟は1804年(文化元年)の作品で確認できることから、本作が正精晩年のものであると仮定すると、定信が幕政を去り白河藩主として活躍していた時代にわざわざ依頼したことが推測される。

阿部正精筆「オランダ風景図」

(福山歴史資料室蔵)

江戸期における日本人による油絵は、多方面に渡る活躍を見せた平賀源内が有名だが、本油彩画は正精が描いたオランダの風景画である。
当時正精がオランダに渡ることは考えられないため日本国内に持ち込まれた作品を模写したものと思われる。福山藩で初めての蘭方医であった坂上卜安(さかがみぼくあん)を任用することで、自らオランダ語を学ぶなど正精の蘭学への関心は随分と高かったようである。

昼夜遠眼鏡

(福山歴史資料室蔵)

刻銘 Dolland Day or Night

基本的な構造は名の通り、昼間でも夜間でも使用することができる望遠鏡で、一般的には船上で使用された。対物レンズと接眼レンズにはスライド式のカバーが付き、真鍮製で、革張りされた胴の両端から管を引きのばすことで使用する。また付属の木箱には「昼夜遠眼鏡 阿蘭陀製」とある。
所用者は不明だが、正精は福山藩士石坂常堅(いしざかそうけん)に幕府天文方渋川家のもとで暦学を研究させ、江戸丸山邸内に天文測量場を創設しているためここで紹介する。
また、水戸藩9代藩主徳川斉昭が、老中阿部正弘との往復書簡をまとめた『新伊勢物語』冒頭部分に、正弘が蟄居中の斉昭から求められて、所蔵の昼夜眼鏡を貸し出す件がある。

寛永廿年朝鮮人来朝記 阿部正精写し

(福山歴史資料室蔵)

1643年(寛永20年)の朝鮮通信使の来朝記録を正精が写したものである。江戸時代計12回行われた朝鮮通信使であるがその5回目の記録で、4代将軍徳川家綱誕生を祝賀してのものであった。
幕政に携わる者として通信使の接待は幕命により下される重要課題であった。また藩領である鞆の浦は度々通信使が来朝しているため、こうした過去の事例を学んでおくことは必須の課題であったと思われる。

福山藩 阿部家 5代藩主 阿部正寧(まさやす)

藩主在任期間
1826年(文政9年)~1836年(天保7年)
生没年
1809年(文化6年)~1870年(明治3年)

 正精の3男として1809年(文化6年)江戸藩邸で生まれた。1824年(文政7年)従五位下対馬守に任ぜられ、1826年(文政9年)、18歳で父正精の遺領を襲封し、1831年(天保2年)奏者番に任じられる。
 ただ、襲封後数年間は天変地異により財政状況は窮迫状態に急落してしまう。1828年(文政11年)の大雨洪水による損毛(そんもう)九万八千石、1830年(天保元年)の大雨洪水による凶作、1831年(天保2年)の大早魃(だいかんばつ)などがそれである。
 元来が病弱であったため1836年(天保7年)奏者番を辞職し、さらに同年には致仕(ちし)して弟正弘に家督を譲っている。福山藩阿部家の中でも比較的長寿であり1870年(明治3年)61歳で死去。

阿部正寧(まさやす)肖像画
吉田洞谷(とうこく)

(福山歴史資料室蔵)

作者の吉田洞谷については正精肖像画で紹介したため割愛する。正精の場合洞谷の活動時期と正精の没年が合致しなかったが、正寧は1870年(明治3年)の没であるため、少なくとも面識はあったものと思われる。

文化文政時代福山城下図

(福山城博物館蔵)

文化・文政(1804~1830)時代、つまり阿部家時代の福山城下絵図で、やはりその用途によって色分けされている。当然三之丸家老屋敷にも西側から反時計回りで佐原・下宮・内藤と阿部家家老の名前が見える。更に本作品の特徴としては、1786年(天明6年)福山西町の西堀端に正倫(まさとも)により創設された藩校弘道館が白抜きで記される。
町全体の用途としては水野家時代のものとほぼ同じであり、福山城下の構成は水野家時代にほぼ完成していたことが分かる。

阿部正寧対馬守口宣案(くぜんあん)

(個人蔵・福山市寄託)

口宣とは口頭で天皇の勅命を伝えることで、その控えの文書を口宣案という。本作品は1824年(文政7年)正寧(まさやす)が対馬守に任命された時のものである。
また対馬守とあるが決して対馬を治めていたわけではなく、元は律令制から続く国司の官職であったが、近世に入ってからは箔を付けることを目的として朝廷から与えられ、自ら名乗るようになった、謂わば形骸化した役職と言える。

阿部正寧筆十字二行書
「遠山横落日 帰鳥度平川」

(福山歴史資料室蔵)

9世紀頃、晩唐の社会派詩人である杜 苟鶴(と じゅんかく)作「秋夜晩泊」
一望一蒼然、蕭騒起暮天。遠山横落日、帰鳥度平川。
家是去秋別、月富今夕圓。漁翁似相伴、徹暁葦叢邊。
から抜粋して書した正寧筆の二行書で、日が落ち、秋の夜が更けていく様を諸外国の脅威にさらされる当時の日本と重ねたのであろうか。

福山藩 阿部家 7代藩主 阿部正弘(まさひろ)

藩主在任期間
1836年(天保7年)~1857年(安政4年)
生没年
1819年(文政2年)~1857年(安政4年)

 正精の6男として1819年(文政2年)江戸藩邸で生まれた。1836年(天保7年)兄の藩主正寧の養嗣子となり、同年従五位下伊勢守、そして正寧の致仕(ちし)により18歳で家督を継いだ。
 1837年(天保8年)、福山に帰国するも、その滞在はわずか2か月余りであり、江戸に戻って早々に奏者番、1840年(天保11年)には寺社奉行を兼任する等多忙な日々を送る。更に1843年(天保14年)には25歳の若さで老中に抜擢され従四位下、そして翌1844年(天保15年)に老中首座となった。1853年(嘉永6年)、ペリーの浦賀来航、翌1854年(安政元年)の日米和親条約の締結に至る開国問題を老中首座として指揮した。
 正弘はその後も英・露・蘭の三か国と和親条約、下田条約の締結を行うが1857年(安政4年)、39歳の若さで病没する。老中の座のまま没しており、その最期まで日本の舵取りを行っていたと言える。
 アジア諸国が欧米列強と戦争、また植民地となる中で積極的に情報を集め、諸外国との情勢を鑑みた上で平和的に開国への道を歩んだ事は大きく評価される。更に徳川斉昭、松平慶永・島津斉彬など親藩・譜代・外様の垣根を越えて連携をとり、衆論を採って幕政・外交に当たった他、高島秋帆(たかしましゅうはん)や川路聖謨(かわじとしあきら)、勝海舟に代表されるように身分にとらわれない人材を登用し、幕府政治においてもまれにみる清新の気風を起こした。
 また、文武一体の教育を進め、江戸と福山に藩校誠之館を設立し、江戸は1854年(嘉永7年)に、福山は1855年(安政2年)に開校している。「先(ま)ヅ我藩ヨリ先鞭ヲ着ケ、文武ヲ引立テ」るため「先ヅ学制ヲ改革スベシ」として藩士の身分ではなく実力に応じて取り立てる等人材の養成と登用の道を開いたと言える。

阿部正弘肖像 五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)

(福山誠之館同窓会蔵)

正弘を描いた油絵。作者の五姓田芳柳は1864年(元治元年)茨城県の生まれで明治から昭和初期に活躍した洋画家である。代表作には福沢諭吉像や関東大震災赤十字社救護活動図等がある。
当然正弘との面識はなく、本作品について1897年(明治30年)頃、正弘の近親者を元に関係者等から話を伺いつつ描かれたと伝わる。ふくよかな頬と鼻筋の通った顔立ちで手に笏を持つ束帯姿で描かれる。

阿部正弘所用 紺絲菱綴五枚胴具足(こんいとひしとじごまいどうぐそく)

(備後護国神社蔵)

阿部正弘所用の甲冑。兜は茶漆塗の六十二間筋兜で、眉庇含め鉢全体に茶漆が施され、前立てに獅噛を挿す。 は本小札を毛引威とする三段で内側を金陀美塗とする。胴は伊予札を紺糸で素懸の菱綴威とした五枚胴で、兜と同様に全体を茶漆で整える。

金梨子地葵紋橘高蒔絵鞍鐙(きんなしじあおいもんきったかまきえくらあぶみ)

(備後護国神社蔵)

鞍の中央に高蒔絵で徳川家家紋である葵御紋が施される。阿部家の宝物をまとめた「阿部家伝拾遺」に「弘化二年(1845年)五月四日、本城造営(弘化元年(1844年)には江戸城造営総奉行に任命されている)等の勤労を賞されて、大小佩刀及び虎皮鞍覆、葵章鞍鐙並に廏馬を授けられる」とあり、将軍家から拝領した馬具だと判明する。
更に上記の江戸城造営・日光東照宮の修繕・海岸防備など正弘の活躍は目を見張るものがあり、それらを賞されて、1852年(嘉永5年)に福山藩は1万石の加増となる。

蝦夷地図 板倉伊代守より到来嘉永七年甲寅六月

(個人蔵・福山市寄託)

蝦夷地を描いた絵図。ここでの蝦夷地とは現在の北海道だけでなく、周辺の島々や千島諸島・サハリン(樺太)などを含む。18世紀末~19世紀初期、ロシアとの緊張関係の高まりや幕府の蝦夷地調査・直轄化が行われる中、絵図・地図類が次々に作成され、伊能図の完成までに地理的な輪郭がほぼ明らかになった。
正弘としても国防のためこれらの地を把握しておく必要があり、1856年(安政3年)、石川和介(関藤藤陰)や山本橘次郎に命じて東蝦夷を探索させ、開拓策を提出させている。
本作品はこの他にも千島列島・樺太を描いた作品と共に計3点あり、1854年(嘉永7年)に板倉伊代守(板倉勝明かと思われる)から受け取ったとの伝来がある。

藤井松林筆「ペリー浦賀来航図」

(備後一宮 吉備津神社蔵)

1853年(嘉永6年)、通商を目的としアメリカ海軍提督マシューペリーが浦賀沖に軍艦を引き連れて現れた。俗に言う黒船の来航である。
正弘はオランダ国王からの書簡等でこの情報を事前に知り置いており彦根・忍藩等に警護させる中、久里浜で親書を預かるが将軍が病床であることを理由に返答は一年後とし、一旦国外へ退去させている。1854年(嘉永7年)、計9隻の艦隊を引き連れてペリーは再来日するが、この間に外様大名含め多くの意見を集め国防に備えた。結果的に同年、日米和親条約が締結されるが、あくまで薪・水・食料の供給、つまりは人命救助を目的とした条約であり、アメリカ側が目的とした通商(貿易)に関する要求は断固拒否したものであった。
本作品は交渉のため横浜に建設した応接所から、ボートに米俵が積み込まれ、蒸気船サラトガ号へ運んでいく場面が描かれており、再来日した際の情景と思われる。福山藩お抱え絵師、藤井松林(しょうりん)の作と伝わる。

高川文筌筆「亜米利加使節応接之図」

(個人蔵・福山市寄託)

横浜応接所での会見と宴席での歌舞の様子が描かれている。幕府側は林大学頭、町奉行井戸覚弘、目付鵜殿長鋭らを交渉委員とし、米国側にはペリー提督をはじめ大勢の将兵たちが緋毛氈に腰かけて酒食を共にしている。本作品には続きがあり、その次には饗応のお礼であろうかアメリカ兵が顔を黒く塗り楽器を手に踊る姿が描かれている。

ペリー提督日本遠征記

(個人蔵・福山市寄託)

アメリカ合衆国議会の命により、ペリー自身の日記「ペリー日本遠征日記」をもとに編集され1856年(安政3年)に刊行されたもので、全3冊ある。1巻目には、ペリーの遠征理由、アメリカから日本に至る各国の風物・風俗、さらに日本との交渉、2巻目に各地の博物学的調査報告、3巻目は航海中の天体観測記録が記されている。また2巻目には日米和親条約の写しが掲載されている。
更に本作品はペリーから正弘に贈られたものと伝わる。また、時期は不明であるが、この他にも顕微鏡や六分儀等、ペリーから贈られた品々が現存している。

地球儀

(福山誠之館同窓会蔵)

赤道、子午線の他海岸線や国名等地理情報が描かれた地球儀。東アジアはオスマン帝国が占め、アフリカの国境も現在のものと異なり、そこに示された国名から19世紀末頃の制作と推定される。更に後世加筆修正された跡が見え、誠之館における授業で使用したことが推測される。

海防愚存(写)徳川斉昭阿部正弘宛

(福山歴史資料室蔵)

1853年(嘉永6年)黒船来航後、正弘の命で海防掛参与となった斉昭が阿部正弘に対して提出した建言書の写しである。
鎖国は幕府の方針であり、それを破って乗り込んできたペリーの無礼な振る舞いを言語道断と非難するとともにアメリカとの開戦に対する心構え等が記されている。

藩中文武奨励諭示

(備後護国神社蔵)

藩校教育の改革を抜本的に実施する必要を感じていた正弘は1852年(嘉永5年)、自ら筆を執って新しい学生構想を江戸の福山藩重臣たちに諭示した。これが本作「藩中文武奨励諭示」(別名「誠之館御造営御趣旨御直書」)である。
内容としては学問を盛んにして人材を育成すること、更に家柄に関係なく学ぶこと、そしてそれが国を動かしていくことに繋がるといった教育方針と目的である。また既に弘道館があるが、そこでは文武一体となった教育を行うには狭すぎるため新たな藩校が必要であるといったことも記されており、この方向性を元に1855年(安政2年)、藩校誠之館は開校されている。
誠之館の受講内容は日本に迫る欧米列強に対抗するため国学・洋学・医学・洋式兵法を採用した兵学など、それまでの漢学を中心としたものと全く異なっていた。その他にも剣術・馬術・柔術の他砲術や水練(水泳のこと)等規模・内容共に充実していたと言える。また本作品が記されたのは、まさにペリー来航のわずか1年前のことである。

福山藩 阿部家 8代藩主 阿部正教(まさのり)

藩主在任期間
1857年(安政4年)~1861年(文久元年)
生没年
1839年(天保10年)~1861年(文久元年)

 正寧の長男として1839年(天保10年)江戸藩邸で生まれる。1857年(安政4年)叔父の藩主正弘の養子となり、同年19歳で正弘の遺領11万石余を継ぎ、従五位下伊予守に任ぜられる。
 正弘の意思を継ぎ藩士の文武の道を奨励し、また海防のためにやはり正弘が画策した西洋式藩船の建造を発意するなど藩政改革に着手したが、1861年(文久元年)、23歳の若さで病没した。治世はわずか3年であった。
 正教の早逝により福山藩阿部家3代正右から7代正弘まで続いてきた奏者番、寺社奉行、京都所司代、老中といった幕府における阿部家の役職の就任は途絶えることとなるが、京都守衛、第一次・第二次長州出兵など、福山藩は譜代藩として新たなかたちで幕末の日本で活躍していくこととなる。

藤井松林筆「阿部正教肖像画」

(福山歴史資料室蔵)

作者の藤井松林(しょうりん)は1824年(文政7年)福山藩士の子として福山市長者町に生まれた後、吉田東里等に画を学び、京都で中島来章に従学、後に長州の役に従軍し地形を測写する等活躍した福山藩お抱え絵師。
1877年(明治10年)第一回内国勤業博覧会に出品し、同年「藤雀鼬(いたち)図」を宮中に献画して懐紙器、水注等を下賜される。その後1889年(明治22年)に「百福図」「遊鯉図」を宮中の命により献画。同年11月、皇后陛下が日本美術協会に行啓あった際に鴛鴦(おしどり)と亀を御前で揮毫(きごう)する。更に育成した弟子も多く、明治期における福山画壇の第一人者と呼べる。

推敲草

(福山歴史資料室蔵)

十春詩集と巻内に題し、菅茶山とその弟である耻菴(ちあん)が詠んだ漢詩をそれぞれ10首写し、更にその後正教自作の春の和歌10首を書している。春をテーマとして春寒・春陰・春雨…といったかたちで3名分、合計30首記される。
年月日は判別しないが吟草と同じく藩主の教養を示す作品である。

吟草

(福山歴史資料室蔵)

正教が書き写した漢詩を福山藩お抱え儒学者門田朴斎(ぼくさい)が誤字・脱字等を拝評、添削したもの。どうやら1850年(嘉永3年)、正教が10歳の頃から始まったようで1856年(安政3年)正教が藩主に就任する直前まで現存している。元旦から晦日までの1年の内、晩春・中秋等様々なタイトルで、詠み人含めて記している。藩主が教養を身に着けるため、勉学に勤しむ姿が垣間見える作品と言える。
門田朴斎とは1797年(寛政9年)備後国安那郡百谷村に生まれた儒学者。1808年(文化5年)12歳で菅茶山の「廉塾」に入り、後に茶山の養子となり、1827年(文政10年)には京都の頼山陽塾に入門、1829年(文政12年)福山藩主阿部正寧に儒者として登用、江戸藩邸で正弘の教育にあたった。しかし、ペリー来航に際して攘夷論を唱え、幕政批判をおこなったため蟄居を命じられる。後に正方に登用され藩主を補佐するが、本作品はその蟄居中に正教の教育係として活躍したもの。

阿部正教筆和歌短冊
「浅からぬ」「こぞの冬」

(福山歴史資料室蔵)

此間色々贈被下候間右為御札読まいらせ候
浅からぬ心の誰ぞしられけり おくりし歌の詞ながらも 正教
こぞの冬をさな心のたわむれは 昔になりしこゝちこそすれ 正教
色々贈り下されそうろう、とあるので正教に対しての何かしらの贈り物、又は返歌であろうかそれに対して差し出された正教の和歌。出されないままであったか後の世に返還・献上されたか阿部家に伝わる。

福山藩 阿部家 9代藩主 阿部正方(まさかた)

藩主在任期間
1861年(文久元年)~1868年(慶応4年)
生没年
1848年(嘉永元年)~1867年(慶応3年)

 正寧の3男として1848年(嘉永元年)、江戸藩邸で生まれる。1861年(文久元年)兄の藩主正教の相続人となり、同年14歳で正教の遺領11万石余を襲封し、従五位下主計頭となる。1863年(文久3年)上洛して京都守衛にあたる。1864年(元治元年)以降、わずか17歳という若年で第一次・第二次長州戦争に福山藩兵を率いて出陣、第二次では石見国に出陣し大村益次郎率いる長州軍と交戦するも1866年(慶応2年)病を得て帰城する。
 1867年(慶応3年)、わずか21歳という若さで病没、その激動の人生を終える。しかし幕末の混乱のさなかであることからその死は伏せられ翌1868年(慶應4年)、病死が公表された。福山藩阿部家当主の中で唯一福山に埋葬されている人物である。

藤井松林筆「阿部正方肖像」

(福山歴史資料室蔵)

作者の藤井松林は正教画像で紹介したので割愛する。他藩主と同様手に笏を持ち束帯姿、更に平打ちの組緒(平緒)には福山藩阿部家家紋である〝丸に違い虫喰鷹ノ羽〟が描かれる。

阿部正方所用紺絲威童具足

(備後護国神社蔵)

本具足は阿部正方14歳の元服の際に制作されたと伝わる胴丸の童具足で、他の童具足同様大人のものに比べて若干小振りである。
兜は錆地三十二間筋兜で前立に獅噛と鍬形、更に鍬形台裏に牛の仲間であるヤクの毛を施す。 は本小札毛引威三段。胴は本小札紺糸威の胴丸で前立挙二段、長側四段、後立挙二段の右引合わせ胴丸。

城州八幡橋本御警衛御陣屋絵図(じょうしゅうはちまんはしもとおんけいえいおんじんやえず)

(福山城博物館蔵)

1863年(文久3年)、将軍徳川家茂は政治の中心となりつつあった京都において攘夷の決行を諸大名に命じた。しかしあくまで幕府を排した尊王攘夷を目指す長州藩士の動きは依然活発であり、これを監視し、抑える為に福山藩は京都守護の命を受ける。これを受けて家老山岡治左衛門以下1,800人を引き連れて同年、京都石清水八幡宮西側の橋本と呼ばれる場所に宿陣したのだが、本作品はその橋本内における宿陣図。奇しくも長州一派と攘夷派公家衆を京都から追放する8月18日の政変の2週間前のことである。この時正方わずか17歳の時のこと。

長防州御征伐広島御宿陣附(ちょうぼうしゅうおんせいばつひろしまおんしゅくじんづけ)元治元年一月御参集

(福山歴史資料室蔵)

1864年(元治元年)に、長州藩は武力上洛戦を敢行したが敗れてしまう(禁門の変)。この直後、朝廷から長州征討の命をうけた幕府は、西国21藩に出兵を命じた。このとき正方も芸州藩・松山藩などと共に征討の先鋒として6,000人の家臣と共に広島に出陣している。広島・小倉を営所とし、総計15万の軍兵が長州藩境を取り囲むことで長州藩は謝罪恭順の姿勢を示し、3人の家老が自刃することで和睦とした。
本作品は広島での宿陣藩の一覧を記した瓦版で、阿部主計頭正方は備後福山11万石余で、出兵数7,000人(実は6,000人)とし、家紋・旗印・陣羽織の紋様などを入れ、宿営地は東寺町の正清院と報じている。

阿部正方筆「宝珠図」「おもいきや…」

(福山歴史資料室蔵)

箱表書「正方公三次御滞陣中御書 御書画」

おもひきや かかるところに たむろして
このあらたまの 春を見むとは 正方印印
家老三人が自刃することでいったんは恭順を示した長州藩であるが再び軍備を整え始めたため、これに対し幕府は1865年(慶応元年)第2次征長軍を進めることとなる。福山藩は正方主導の元、同年浜田・津和野・鳥取・松江藩等と共に山陰の石州口に藩兵800人を引き連れて出陣する。
本作品はその道中に備後国三次駅に至って頓営した際に正方により書されたもの。

尼子軍記石州津和野合戦

(福山歴史資料室蔵)

1866年(慶応2年)、石見国益田市街において戦闘は開始されるが、人数に劣るも士気が高く、戦術に巧みな長州軍の前に福山・浜田の連合軍は激戦の末敗れる。
本作品は合戦の戦闘模様の瓦版で福山藩・鳥取藩・松江藩等からなる征長軍と長州藩の戦闘模様が描かれる。

福山藩兵石州益田合戦地図

(福山城博物館蔵)

前作品で紹介した益田市街における戦闘の様子を描いた絵図。燃え盛る益田市街中に記された文字によると、福山藩兵は市中で長州軍奇兵隊から挟み撃ちに遭い、また左上に記された記録によると長州軍の不意の発砲、つまりゲリラ戦法に苦しめられたようである。
石州口の戦いは長州軍を大村益次郎が指揮しており、この戦に勝利したことで大森まで進軍し幕府の直轄領であった石見銀山を奪うこととなる。

江木鰐水(がくすい)著 守城論

(福山歴史資料室蔵)

守国論・守城論・小丸山修理図説などが納まった福山藩儒学者江木鰐水の著作。福山城郭の弱点である城背からの攻撃に対処するため、小丸山や天神社山といった、天守周辺の丘陵地への砲台設置図案を描き、方策を述べていることから、長州からの攻撃を想定したものと推測される。具体策としては勇鷹神社の丘陵に第一砲台、本丸北側との間に橋を架けそのあたりに第二砲台…といった具合である。1864年(元治元年)、まさに長州征伐が行われた年の作である。

戊辰正月薩長藩兵ガ差出タル戟書(げきしょ)長州藩中ヨリ福山家老中へ戊辰正月九日

(福山歴史資料室蔵)

1867年(慶応3年)、朝廷は王政復古を宣言するが、その直前の1か月前に、正方は福山城で21歳の若さで死去し、翌年まで喪を秘した。こうしたとき、長州軍は芸州軍と共に尾道に結集し、東上を開始、1868年(慶応4年)には遂に福山へ進撃してきたので、福山市中は大混乱となった。
その福山城攻撃に際して長州陣営より福山家老宛に届けられた宣戦布告文が本作品である。福山藩は譜代藩であり、徳川氏と君臣の義が有るため、飽くまで存亡を共にするのは当然であろう。ついては勤王の諸藩は申し合わせて兵馬を差向ける…というものであった。それに対して福山藩は、朝命を遵奉するとの決答を出したが、他藩への見せしめのためであろうか、ついに戦闘となった。両軍死傷者を出すこととなるが結果的に和平が成立し、福山藩は勤王を誓うことになる。

清水輝洲筆「関藤藤陰 肖像画」

(福山誠之館同窓会蔵)

石川和助(関藤藤陰)は1807年(文化4年)備中国吉浜(現笠岡市吉浜)生まれの儒学者兼医師。1828年(文化11年)頼山陽に入門した。1844年(天保11年)、福山藩の儒官に採用され、「君側御用掛」として阿部正弘を補佐した。徳川斉昭の幽閉解除の運動、藩校誠之館の創立、ペリー来航にあたっての浦賀・下田探索・二回にわたる蝦夷地および樺太の探査行などに対応した。その後も正教の侍講、正方の側用役として幕末動乱期の福山藩をささえた。
1868年(慶応4年)の長州軍福山城攻囲戦には、「大義親を滅ス」と藩論を統一したうえで和議を成立させ、福山城下を戦火から救った功績は大きい。版籍奉還で到仕して隠居した。

福山藩 阿部家 10代藩主 阿部正桓(まさたけ)

藩主在任期間
1868年(慶応4年)~1869年(明治2年)
生没年
1851年(嘉永4年)~1914年(大正3年)

 前藩主である正方の不慮の死の後、藩主不在であった福山藩であるが1868年(慶應4年)に広島藩主浅野長勲(あさのながこと)の弟である元次郎を正方の養子として、更に正弘の6女寿子に婿入りするかたちで迎い入れる。こうして福山藩阿部家10代藩主、奇しくも福山藩にとって最後の藩主として遺領11万石余を襲封した。同年、明治へと元号が変わった1868年(明治元年)には幕府残党であった榎本軍が立てこもる箱館五稜郭へむけて鞆港より出陣して箱館戦争へ出兵する福山藩であったが、翌1869年(明治2年)には榎本軍も力尽きて投降し、戊辰戦争は終了した。同年福山藩主は新政府に対して「版籍奉還」を建白、旧藩主正桓は知藩事に任命され、藩政改革に着手した。次いで1871年(明治4年)には「廃藩置県」が断行され福山藩は福山県となることで知藩事を罷免、東京へ移り住むこととなる。

金沢重治(じゅうじ)筆「阿部正桓肖像画」

(誠之学友会蔵)

大礼服に身を包んだ正桓の肖像画。作者の金沢重治は1887年(明治20年)東京本郷で生まれ育った画家で大正後期から戦後にかけて鎌倉を拠点に活動している。制作年は不明であるが作者が生まれた本郷は文京区内であり、そうした由来から依頼されたものと推測する。

箱館戦争絵図

(福山歴史資料室蔵)

1868年(慶応4年)、江戸城無血開城を経て長州・薩摩を中心とした新政府軍は着々と新しい時代に向けて力を蓄えていく。一方残存幕府軍であるが東北における戦いを経て、函館五稜郭を榎本武揚主導の元、占領、立てこもることとなる。これを受け同年、福山藩に対して新政府からこの五稜郭に対する攻撃命令が下り、鞆の浦に停泊したイギリス蒸気船モーナ号にて出陣することとなる。
本作品はその際の福山藩兵を描いたもので腰に刀を挿し丁髷(ちょんまげ)を整えるがボタン式の軍服とズボンを着用する西洋風の出で立ちである。また新政府恭順の意味合いがあったのか、舞台旗は阿部家家紋でなく蝙蝠(こうもり)と山を象った、後に制定された福山市章に似通ったものを持っている。

阿部主計守(正桓)版籍奉還書(控)

(福山歴史資料室蔵)

版籍奉還とは1869年(明治2年)長州・薩摩・土佐・肥前の4藩が朝廷に対して、土地と人民の返還建白書を提出したことを発端とする制度改革である。それに伴い福山藩も翌1870年(明治3年)、他藩に先駆けて比較的早急に建白書を提出している。因みに1870年(明治3年)の半ばにはおおむね全ての藩が提出している。
本作品はその控えであり、長州・薩摩・肥前・土佐藩に対して皇国、つまりは朝廷に福山藩の土地を返還し、恭順する旨記されている。

阿部正桓撮影福山古写真

(福山城博物館蔵)

1897年(明治30年)4月下旬から正桓は福山を訪れている。約1週間の滞在で正方30回忌の法要や連日に渡って元家臣との会見、阿部神社(備後護国神社)への参拝を行っている。
本作品はその正桓が撮影したと伝わる古写真で、この他にも福山城本丸内の様子やはね踊り等明治初期の福山の様子が撮影されている。また正桓は徳川慶喜らが立ち上げた華族による写真クラブに入会しており、活動誌である〝華の影〟にもその作品が度々掲載され、黒田清輝からもその構図を評されている。

黒漆塗御紋付御鼓

(福山歴史資料室蔵)

鼓が得意だったという正桓愛用の鼓。
黒漆地に胴部全面には蓑・唐傘・宝珠・「寿」の文字・阿部家家紋など、めでたい宝尽し文様を、余白がないほど散らしている。その鼓を収納する箱も、総黒漆塗りで、阿部家家紋である〝丸に違い虫喰鷹ノ羽〟を大きく入れる。