福山城デジタルアーカイブ

歴代藩主 水野勝成から16代藩主 阿部正桓までの歴代藩主の紹介や古地図・古写真などの資料から見える
福山城の姿を「福山城デジタルアーカイブ」として紹介します。

天守

1619年(元和5年)海路にて福山市南部、鞆の浦より上陸した水野勝成は、城郭及び城下町の候補地を選定すべく領内を巡視し、最終的には現在福山城が鎮座する常興寺山を築城の場として定める。ここは城背の北側を山陽道が通り、また南面は内海に臨み、外港の鞆の浦等、海陸共に交通の要衝地であったことがその理由として考えられる。
1620年(元和6年)よりいよいよ始められた築城であるが、縄張(なわばり)の設計は普請場麓(ふしんばふもと)に屋敷を構えた上で勝成自身が行ったと言われ、大量の石垣は当時水野家領であった瀬戸内北木島や白石島から運んでいる。一国一城令が発布されている時世において本格的な築城が許されたことは異例の事態であり、西国鎮衛(さいごくちんえい)の観点から見た福山城の重要性と、更に勝成に対する並々ならない期待が窺える。完成は1622年(元和8年)で、その後すぐに正式入城を果たした。
天守は5層6階、2層3階の小天守を接合する層塔型複合天守であり、1層目の南北面と2層目の東西面は比翼入母屋(ひよくいりもや)、その他の各層にも唐破風(からはふ)・千鳥破風(ちどりはふ)といった2種類の破風を備えた太平の世を表す華美なものであった。しかし外敵から視認しにくいよう鉄砲狭間を破風や懸魚(げぎょ)の裏側近くに設けている点や、天守入り口真上といった要所に備えられた海鼠壁(なまこかべ)、地階への換気と明かり取りの為に設けられた格子窓など、実用性や耐久性も考慮されていると言える。更に天守自体の用材には東北の特産である丈夫なアスナロが用いられるなど、その念の入れようは凄まじいものであった。
更に他城にはない、かつての特徴として搦手の防御とするため北側のみ鉄板張りとしていたことが挙げられる。城郭建築の研究者である藤岡通夫氏が遺した学術論文『天守閣建築の研究』に戦前の福山城に関して『壁構造の特殊なものとして塗込壁の上に鉄板を張ったものがある。備後福山城天守の北面の壁に用いられているのがそれで、北側のみは全面に鉄板を張っている。…それは極めて特殊なものであって他に類例は全くない』と記している。
阿部時代に変わっても福山城は福山藩のシンボルであり続けたが、時代は変わり1873年(明治6年)、俗にいう廃城令が建白される中でいよいよ福山城はその役割を終える。しかし福山町民からの寄付金で修繕を行うことでなんとか維持し続け、1933年(昭和8年)、国宝に指定される。残念ながら1945年(昭和20年)8月8日の福山空襲の際に焼失、現在の天守は1966年(昭和41年)に再度市内企業や市民からの寄付金で再建されたものであるが、そうした多くの人物の想いが込められた天守といえる。

  • ニューキャッスルより
  • 天守閣

伏見櫓(国重要文化財)

京都伏見城・松の丸にあったものを水野勝成の福山城築城に当たって、徳川2代将軍秀忠が移築させたものである。伏見城の城郭建築の遺構としては希有のもので、白壁3層の豪華な姿に桃山時代の気風が窺われる。また、2階梁より京都伏見城からの移築を表す〝松ノ丸ノ東やく(ぐ)ら〟といった刻印が発見されており、国内でも有数の、明確な伝来を持つ櫓としてその価値を更に高めている。
構造としては3層3階、本瓦葺(ほんかわらぶき)で、1階と2階は同幅員の矩形8間4分、4間5分、3階のみ4間2分と3間7分の正方形に近い形をする望楼型(ぼうろうがた)、南北棟の入母屋造り(いりもやづくり)である。外壁は江戸期以降頻繁に見られる総塗籠(そうぬりごめ)ではなく柱痕がそのまま露出しており、また北側、本丸側は木製の柱がそのまま露出している。破風は3階の四方に1つずつあり、特に東西のものは3階を貫く形で施されている。その他筋鉄御門方面を防御の為か1階東側に3つ、3階南側に2つ鉄砲狭間を備える。
また水野時代より城付武具の保管庫とされていたようで、1690年(元禄3年)の記録によると、水野家家紋である“抱き沢瀉(おもだか)紋”の入った足軽具足150、鉄砲100丁、弓100張…といった具合である。
福山城廃城後は1882年(明治15年)頃に個人の所有となり、骨董品陳列場、ならびにビリヤード場として利用された。しかし天守と同様に荒廃が激しかったため、1895年(明治28年)広島県から管理権限を福山町に上申の上移管、福山町民の寄付金1万円をもって修理が行われ、そこから更に1919年(大正8年)頃までは書画骨董を陳列する場となっていたようである。1933年(昭和8年)、天守などと共に国宝に指定される(1950年(昭和25年)の文化財保護法施工により現在は国重要文化財)。1945年(昭和20年)8月8日に福山は空襲を受けるが幸いにして筋鉄御門と同様戦災を免れており、1954年(昭和29年)解体修理の際に上記刻印が発見されている。
先述したように本櫓は廃城後も、また戦災からも免れることでその姿を現代に留めてお り、福山城築城当時から現代まで福山の歴史を見続けてきた櫓と言える。
※内部非公開(但し例年11月3日文化の日(祝)のみ公開)

  • 刻印
  • 内部
  • 伏見櫓 (2)
  • 伏見櫓

筋鉄御門(すじがねごもん)(国重要文化財)

本丸正面にそびえる正門で、向かって左に渡櫓(わたりやぐら)、右に多門(たもん)を連接させる、後代の枡型多門(ますがたたもん)の型をとらない初期様式のものである。本瓦葺(ほんかわらぶき)、入瓦屋造り(いりもやづくり)で伏見櫓と同様に柱痕が確認できる。内部は3間、10間半で、更に南北にそれぞれ土間を持ち、門の真上には本丸防御のための機構として矢狭間や鉄砲狭間ではなく格子窓を備える。
筋鉄御門で特筆すべきところは、その名前の由来となった、柱の角と扉に数十本の筋鉄を、やはり鉄製の鋲で打ち付けている点である。筋鉄御門を潜ると本丸であり、正面には福山藩において最も重要な本丸御殿がある。謂わば福山城にとって最後の砦であるため、それだけ強固に作られている。また2枚の大扉は柱と梁は欅材である。
更に大扉は常には開かず、普段は向かって左側の潜戸を用いたと伝わり、また戦前の記録では瓦には全て水野家家紋である“抱き沢瀉(おもだか)紋”が施されていた。その他福山築城に際して、伏見城から移築したものと伝わる。
1933年(昭和8年)、天守などと共に国宝に指定される(1950年(昭和25年)の文化財保護法施工により現在は国重要文化財)。
※内部非公開

  • 筋鉄御門 裏面
  • 筋鉄御門(2019)

鐘櫓(福山市重要文化財)

2階建て、福山城の鐘櫓で元は鐘と太鼓を吊り、1時(現代の2時間)の鐘と半時(現代の1時間)の太鼓を打っていた。
鐘櫓の鐘についてはいくらか記録があり、元は直径2尺5寸、高さ4尺5寸の鐘と、直径3尺、高さ3尺5寸の太鼓であったが、1796年(寛政8年)に破損したため鞆番所にあったものを取り寄せて以前のものは三之丸鉄御門の2階に吊ったとのことである。またその翌年、1797年(寛政9年)に摂州高津にて新調した際は儒学者山室如斎(やまむろじょさい)の銘を刻み、藩船により運び入れたこと、1825年(文政8年)には再び破損したので直径2尺4寸、高さ3尺6寸のものを新調し、菅茶山の銘が刻まれたといった記録がある。
その他時代は遡るが福山藩水野家4代藩主勝種の代に幕府直轄地であった石見国大森銀山に緊急のことが発生した場合、福山藩はただちに兵を送るよう申し伝えられている。その際は太鼓を叩き、藩士に対して半時(現代の1時間)で準備を整え、集合することとなっていたようである。つまり時を告げる以外にも緊急時に武士を招集する役割もあったと言える。
明治時代以降、たびたび補修を繰り返していたが原形を留めないほど荒廃が激しかったため、1979年(昭和54年)胴板葺きで修復。現在は鐘のみではあるが今でも1日に4回、時の鐘をついている。1979年(昭和54年)10月26日福山市重要文化財指定。
※内部非公開

  • 鐘櫓1

月見櫓

6間5間、本丸南東隅、武家屋敷の広がる南側や、町人屋敷の広がる南西入江方面も展望できる位置に築かれた2層2階の櫓。
2階部分には高欄(こうらん)付きの廻り縁(まわりえん)が備えられ、冒頭述べたように城下の様子を一望することが出来る。また本丸を守るといった意味合いから、軍事上においても重要な建物であったため、実際の機能は不明であるが1階南側に石落としが古写真等から確認でき、古い建築様式を持っていると言える。
また本来は参勤交代などの際、藩主の到着を見極める〝着見櫓〟のことであるとも言われており、事実岡山城や高松城にも同名前の櫓が存在する。更に伏見櫓等と同じく京都伏見城からの移築と伝わる。
1879年(明治12年)頃、廃城令のあおりを受け取り壊され、葦陽館と呼ばれる貸会場が建てられる。余談であるが1897年(明治30年)に最後の藩主であった阿部正桓が福山を訪れた際に、この葦陽館で元家臣らと謁見したと本人の日記に記してある。
1966年(昭和41年)天守等と共に外観復元される。

  • 月見櫓

湯殿

本丸南側に建てられた、名前の通り藩主が使用するための風呂場。
内部は3間半、4間半の物見の間と、3間半、3間半の御風呂に分かれる。物見の間は南面し、座敷を上中下の3段に分け、上段の間は藩主が湯上りに涼を取っていたと言われ、更に城下を眺望できるよう高欄(こうらん)を廻らせ、しかもそれは石垣上にせり出している。また中段は近親者、下段は従者の控えとなっていたようである。また風呂は現代でいうサウナのような蒸し風呂であり、本丸御殿と廊下続きであった。
初代藩主である水野勝成は本丸御殿に住していたと伝わるため、本湯殿を使用していた可能性は高いが、その嫡男である福山藩水野家2代藩主勝俊以降の全ての藩主は三之丸東側に藩主専用館を築き住しているため、勝俊以降純粋に湯殿として活用されたかは不明である。
1874年(明治7年)には元福山藩士が建物を買い取り改造、清風楼と呼ばれる料亭を開設している。またやはり湯殿も他の建物同様京都伏見城から移築したと伝わり、1933年(昭和8年)国宝に指定されていたが1945年(昭和20年)8月の福山空襲で焼失することで指定は解除となり、現在のものは1966年(昭和41年)木造により外観復元されたものである。