古代~市制施行
古代の福山は、現在の市の中心部のほとんどが海の中であり、芦田川流域は新市町、府中市あたりまで深く入り込んだ海で、『穴の海』と呼ばれていました。
古くから潮待ち風待ちの港として栄えた鞆の浦は、瀬戸内海の中央、沼隈半島の先端に位置し、万葉集でも大伴旅人の歌にも詠まれました。
平安のころから芦田川に三角州が形づくられ、鎌倉時代には、今は芦田川の中洲に眠る草戸千軒町が明王院の門前町として栄えていました。
江戸時代に入り、1619年(元和5年)、水野勝成が備後10万石の領主となり、3年後に福山城を築き、地名を『福山』と名づけました。

その後、芦田川の河口の三角州の干拓や、日本で5番目に古い水道をひくなど城下町としての整備を進めました。
1889年(明治22年)の市町村制により福山町となり、地方行政の中心的役割を果たし、1891年(明治24年)山陽鉄道開通などを契機にまちの基盤が形成されました。

市制施行~戦災
1916年(大正5年)7月1日、全国で73番目、県内では広島、尾道、呉に次いで4番目に市制を施行し、福山市が誕生しました。当時の人口は32,356人、面積は5.8平方キロメートルでした。市制施行後、当時の市域の9割が被害にあった大水害などの困難を乗り越え、上水道の敷設、芦田川の改修などに取り組みました。
1933年(昭和8年)に隣接10ヵ村、1942年(昭和17年)に2ヵ村との合併により市域を拡大しましたが、1945年(昭和20年)8月8日、戦災により市街地の8割を焼失し、多くの死傷者が出ました。

戦災復興~備後の中核都市
戦災による大きな被害も、市民のおう盛な復興意欲と郷土愛によって、翌年から戦災復興事業として土地区画整理事業に着手し、現在の近代的な市街地が形成されました。1956年(昭和31年)には隣接10ヵ町村と合併し、国道などの基盤整備を進めて、山陽・山陰と四国を結ぶ産業・文化・交通の要衝都市として急速に成長しました。
古くから地場の繊維産業を基盤としてきましたが、1961年(昭和36年)、単一工場としては世界最大といわれる日本鋼管福山製鉄所の立地決定により、重工業主体の産業都市へと転換していきました。1964年(昭和39年)には備後工業整備特別地域の指定も受け、1966年(昭和41年)の製鉄所操業開始とともに関連企業も進出し、瀬戸内海の臨海工業都市として脚光を浴びることとなりました。
また、近隣地域との一体的発展をめざして、1962年(昭和37年)に深安町と、1966年(昭和41年)に松永市と、1974年(昭和49年)に芦田町と、1975年(昭和50年)に駅家町・加茂町と合併し、市域・人口も拡大・増加し、名実共に備後地域における中核都市となりました。

福山市の今、、、
2003年(平成15年)2月に内海町・新市町、2005年(平成17年)2月に沼隈町、2006年(平成18年)3月に神辺町と合併を重ね、


を擁する、中国地方では4番目の都市となっています。
2015年(平成27年)2月に、備後圏域の6市2町(福山市・三原市・尾道市・府中市・世羅町・神石高原町・笠岡市・井原市)の中心となって、圏域全体の人口減少対策や経済成長などの連携を進める

を行っています。
このように都市の規模が拡大していく中で、市民の間に根付いたのが、現在の協働のまちづくりとなっている
です。『ばらのまちづくり』は、1956年(昭和31年)に「荒廃したまちに潤いを与え、人々の心に安らぎを取り戻そう」と、現在のばら公園付近の住民と行政が協働して約1,000本のばら苗を植えたことから始まりました。戦後復興の希望をばらに託した『ばらのまちづくり』は市民主体のまちづくりへと発展し、2016年(平成28年)5月21日の『ばらの日』に「100万本のばらのまち」を達成しました。
人の想いをつなぐ ROSE MIND

2016年(平成28年)7月1日に

を迎えました。これまでの100年にわたる福山の歴史への感動、今の福山をつくりあげた先人たちへの感謝、そして新たな未来を創造する夢、この『感動・感謝・夢』を育み、飛躍と希望に満ちた次の100年へつなげています。