
築城当時の福山城をCGで再現しました。現在では見ることができない伏見御殿や
築城当時の城郭の広さを体験してみてください。
伏見城から移築したため伏見御殿といわれているが、本丸御殿全てが伏見城から移築されているわけではなく、檜皮葺(ひわだぶき)の一棟を伏見御殿といいます。御殿としては小さな建物ですが、伏見城主が普段住んでいた居間に相当する建物になります。徳川家康が京都に来た際に泊まった建物の可能性があり、非常に歴史的価値が高く格式が高いため、伏見御殿と名付けて福山城に移築したと考えられます。
築城当時の天守は屋根が5つある五重天守で、当時の天守の中で最高格式でした。また、天守の北側は、敵が大砲を備え付けて天守を攻撃した時に守れるように1階から4階まで北面全てを総鉄板張りになっていました。天守の壁に鉄板を張るというのは異例のことであり、日本史上初めての例でした。
福山城は徳川幕府から西国鎮衛の拠点として初代藩主水野勝成が中国地方初の譜代大名として1619年(元和5年)、備後10万石の領主として入封し、1622年(元和8年)に完成した城です。当時、中四国地方、九州地方は外様大名が多く治めており、福山城築城にはそれらの外様大名たちを牽制し、再び戦を起こさないようにする役割がありました。